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2009年10月21日

「晩春」におけるファーザーコンプレックスについて


じゅんじゅんです

小津安二郎の名作 「晩春」

小津映画のヒロインと言えば「永遠の処女」 原節子である。

この物語の主役は 笠 智衆の父と 原節子の 娘 である。

56歳の父親と27歳の娘の二人暮らし。

父親は大学教授で 娘は 戦争中の強制労働で壊した身体を療養中で

回復に向かっている。

「血沈が15に下がった」とか言っているので、「結核」の検査でしょう。

「晩春」は季節なのか、人生の季節なのか、象徴的な言葉であるのだが、

「名作」には多い、解釈多様なタイトルである。

ヒロイン原節子は戦後すぐの世相では、人生の「晩春」にいると思われる。

27なら今の時代、春の盛りと言う感じであるが、「結婚は人生の墓場だから

24までお嫁に行かない」と言う娘が登場するように、そして出戻りの

同級生が、実家にいてもいづらさに「仕事」をしているように、この時代

の27は現代の37歳と思って観るとよくわかる話だ。

父親も66くらいと観る方がよいだろう。56では、再婚してあたりまえ、

しないほうがむしろ「不潔」という関係を不特定多数もちかねない。

原節子は 「結婚なんかしないで、おとうさんとこのまま暮らすのが自分の

幸せだ」というのだ。

この映画の場合、「嫁がぬ」ということは「不犯」を意味する。

私は「尼門跡寺院展」を見に行った時、ほとんどの門跡が長寿であることに

気付いた。

24くらいで早世している方もあるが、ほとんどが「人生50年」を過ぎ、

70以上という当時としては驚異的長寿の方も少なくない。

江戸時代の女性の病と言えば、半分は「産後のひだち」というものだろう。

早世する人のほとんどが、「生めぬほど病弱」か「産んだら病人」のどちらか

なのだ。

その「鬼門」に触れずに人生を生きた尼門跡達が長寿であったのは当然の

ことと言えるのだが、「不犯」であるということは、人生の波乱や万丈とも

無縁であるということともいえるだろう。

仏道の修行といえども淡々とした「日々の暮らし」の連続であった門跡達の

暮らしを「幸せと」とは言えないのだろう。

しかしその「無為」や「平穏」に憧れを覚えないでもない。

笠 智衆の父親は「嫁いでも今以上の幸せはない」という娘に、「(人生は)

そんなものじゃないだろう。しあわせとは、結婚して、ふたりで築いて行く

ものだ。結婚生活にはいろいろ辛いこともあるだろう。しかし、幸せとは

向こうで待っているものではないのだ。」と言う。

真に正しい結婚の勧めだが、原節子の娘の言い分も、「真に正しい不犯の

薦め」だと思ってしまう私がいる。

原節子のヒロインは「お父さんが好きだから」「お父さんが心配だから」

一人残して嫁げないといい、父親の再婚も嫌だと思う。

「自分がいるのにそんな必要はないだろう。」と口にできるほど彼女も稚く

はない。それでも「再婚してもいいから、お父さんのそばにいたい。」

と言う。

それは「父親が好きだから」だけではけしてないが、しかし、やはりこの娘

は、父親を男性として好いているのだ。というより、周りの男性の中で

一番自分の父親が好きなのだ。

この映画で、20代のころ見て不思議だったのは、父親の助手の男性が、娘を

好いているようなのに、他の女性と結婚することだった。

今回「人生50年」を真近に控えて思ったのは、この男性がこの娘を嫁に貰

わなかった二つの理由だ。

20代のころは、それは「上役の娘」だから周りの思念が煩わしいという

気持ちで告白をしなかったが、やはり好きだったと思って後悔しているのだ。

と思って見たが、今回、「自分の愛情では勝てない相手」に気付いていた

からだ、と思い至った。彼の立場では、婿であり助手である養子的立場が

嫌だったのだろうとかかつては納得していたが、彼の愛情はもしかして

もっと深くて、結婚するなら、父親から離れて、自由な未来というものに

漕ぎだしていかなくては、彼女の幸せはない、と思っていたのかもしれない。

イソップ物語の犬は 池に写る自分の姿を見て その水面にうつる肉が

欲しくて「わん」と吠え、咥えていた肉をなくしてしまう。

その肉をなくすのが嫌だと吠えてみない娘に、吠えてみろ、肉をなくしたら

池にもぐって探せ、といってるようにさえ今の私には聞こえるこの父親の

「結婚の勧め」である。

ただしこの肉は、咥えていても食べられない。栄養にはならないのだ。

しかし人には、人生の栄養にはならない食べ物も必要だ。

「ファーザーコンプレックス」は言わば、「嗜好品」である。

嗜好品で重要なのは実際に食べられるかどうかではなくて、自分で自由に

嗜好を選べるかどうか、ではないだろうか。

それは「心の自由」だからである。

嫁いでも、「心の自由」は奪われない。奪われるほどこの娘は弱くはない。

かたくなな「処女(と書いておとめと読む)ごころ」を捨てて嫁に行く話

ではないのだ。彼女のこころは強いから、嫁に行けるのである。

そのことを知っているから、助手は去るのであり、やはり娘の予感通り、

この二人の暮らしが「一番しあわせ」である真実が観ているものの心に残る。

されど万物は流転しなければならない。

「名作」の中のファーザーコンプレックスは、消えるのではなく、真実、

存在し続けて行く。


  


Posted by massan&junjun at 22:18Comments(2)