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2009年12月31日

大晦日に墓参り


じゅんじゅんです

裏山にお墓があるわけではなく、鎌倉霊園にあるのです。

まっさんの発案で、墓参りをしてから鶴岡八幡宮ちかくのそば屋で年越し

そばを食べよう、というのです。

「そば屋なんかあったっけ?」「行ったじゃん。」私の記憶がただしければ、

誰かほかの人と行ったのに違いない。寺でそばといえば、深大寺にそばを

食べに行って、植物園にも寄ったことはある。

まあ、確か二色玉子が美味しい店があったな。

鎌倉霊園は山の上だから、暮や正月は寒風吹きすさんで寒いの寒くないの。

もちろんお湯も出ませんしね。。。お墓をちべたい水で洗って、お線香を挙げ

るんですね。儀式だから仕方ないが、私が入ったら、煙でいぶすのはやめて

欲しいけどなあ。

っていうか、婚家の墓に入りたいですか?散骨がいいかなあ。正月ごとに

葬儀一式から遺言を書いておくという人がいるけれど、そろそろ見習わない

といけませんかね。

それにしても、年々、大晦日も元旦も、情緒も減ったくれもないというか、

お年玉を挙げる一方になってからこちら、ちっとも楽しくありません。

せめて、晴れ着の一つも着ないと気分が出ませんよね。

自分が母親として子供の晴れ着を用意する立場でもないんですけど、晴れ着

っていうのは、用意してもらって袖を通すだいご味っていうのが、いいんで

あって、子供のころに戻りたいっておもうひとつには、晴れ着を着つけて

もらっての親戚まわりです。お年玉は結局貯金しちゃうんですけど、もらう

のが嬉しいんですよね。

まっさんは、もうおせちも買わないと宣言するくらいですから、女房の晴れ

着なんか眼中にない。お正月用に洋服を新調してもらったことなんてこの11

年ないな。そういうと「こづかいはやってる」っていうんですよ。

暮れも押し迫って、片づけておかなきゃいけないことは、各スーパーの

ポイントです。

プリンスペペと大丸のポイントは毎年12/31が期限なのです。

いつもクリスマスケーキやオードブル、あるいはおせちの予約で無事使い

果たすのですが、今年は商品券を使うことを覚えたので、高島屋ルービック

キューヴでチキンもシャンパンもケーキも間に合わせてしまい、おせちも

買わなかったので、ポイントが残っていたのです。

なあに二か所で4千円程度ですがね。

プリンスペペでポイントを商品券に換えようとすると、「5千円分かえとけ」

と、まっさん。期限は半年。ポイントを商品券に換えると寿命が半年のびる

しくみなんですね。

でも、使っちゃいました。プリンスペペで2万3800円も買っちゃいまし

た。換えた商品券と、まっさんが長年ためていた新聞契約時の景品のビール

券で、支払った現金は9800円で済みました。

続いて大丸へ。ららぽの駐車場に入れないのでは?という心配もなんのその、

時刻が4時を過ぎており、帰る人たちの車の列の方がすごい。それでもほぼ、

満車ですが。

ここではお年賀用のお菓子を買い、祝い箸を買い、今夜食べたいと、お煮し

めとゆず白菜つけを買い、ポイントを無事使い果たしました。やれやれ。

来年は、クリスマスに使ってしまいたいな。

鎌倉霊園帰りにお昼食に年越しそばを食べる予定なので、紅白を見ながら

食べようと、おでん種を買ってきました。日本酒とおでんで一杯、まあ

いい年越しかもしれません。本当は大根とじゃがいも位入れたいのですが、

みそかに刺し身と野菜は高騰していて買うもんじゃないという感じなので、

やさいは白菜のおしんこと、煮しめののこりで良しとしましょう。

元旦は私の実家で焼き肉パーティーの予定です。

で今日は肉屋ではハムとサラミだけ買いました。まっさんが刺し身が食べた

いというのでみたら、ぺぺの刺し身は、いつもより高い。ところが、おすし

の方は、980円と、いつもの日曜や祝日と同じサービス値段。ご飯が家に

残っているのに、おすしにしちゃいました。

ごはんなんか冷凍しといてそのうち雑炊にでも使えるもの。

買い物を済ませ、まっさんがワックスを塗っておいてくれた床の上で、

まっさんのてんねんぱーまの髪をカットしてあげました。

お正月を迎える準備はあと、姪のお年玉をつめるくらいだな。

まっさんはここ三日間の大掃除で、眼の下にクマを作りながら、「江ノ島

にも寄りたいな。海が見たい。。。」とかいうので、「彼氏にみせてもらえば」

と私に言われて大爆笑していた。「海が見たいの」なんて女の子の台詞でしょ。

「人は疲れると海が見たくなるんだよ」とか言っているまっさんです。

さてさて大晦日。やはり朝比奈インターから鎌倉霊園、鶴岡八幡宮までの

道は混んでいました。

墓参りはびゅーびゅー風の吹く中手早くすませ、まっさんご推薦のそばや

のある小町通りの奥への道をちょいと過ぎた八幡宮裏手(実際には参道の

横手)の駐車場に空きがあったので入り、そば屋も無事みつけました。

どうしても覚えがありません。するとまっさんはあっさり「そうだ、お袋

と親戚の小母さんを鎌倉霊園に案内してきた帰りに寄ったんだ。」

そうでしょう。「記憶では美味しかったんだが。」そうですね。値段の割に

はさほどのそばじゃない。私が一緒なら、向かいの手打ちそばの店に入って

いるはずだもん。

駐車場に戻ると、そこは偶然、八幡宮参拝者専用駐車場で二時間まで参拝者

は無料。

縁があるね今日はラッキーだねと八幡宮へ行き、祈祷をしてもらうことにし

ました。本殿で参拝してお賽銭を。。。祈祷所に入ると、なんとそこは、さっき

の賽銭箱を背にした座敷。神主さんが祝詞をあげている間、賽銭箱にちゃりん

ちゃりん小銭を投げ入れる音が響く響く。

まっさんは祝詞の中から、自分たちの名前と「心願成就」などの言葉を聞き

取れたというのですが、私が聞いたのは賽銭の音だけ。。。

ただ車の運転のあるまっさんは飲めなかったお神酒をみこさんのてから一口

ついでもらいました。辛口で美味。たるに書いてある名前は。。。残念「政」の

字しか見えなかった。お神酒は売っています一合かな500円。

祈祷がすむと、お札と交通安全のステッカーと絵入りのふ菓子を渡されます。

本殿前で記念撮影。風が強いしむくむくのコート姿で再来年の年賀状に

使えやしませんが、ま、記念に。

参道に出ると、りんごあめやさんが出店していました。

食べたことがありません。おおきいりんごが300円。小さいリンゴが200

円。小さいのを二つ買って、私は車の中でまっさんは帰ってから食べました。

「意外と美味しい」が二人の感想です。

風が強いし、人出が多くなってもきたので、大晦日の外出はここまでで打ち

切り。年越しそばを食べてきたのに、夕飯は姑がうどんを炊いてくれるそう。

麺ぷらす麺くらいなんのその。同居11年の実績でありがたく頂こう。

おでんはそのうち作ればいいさ。





  


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2009年12月30日

二本松はどこへ



じゅんじゅんです

五島の二本松というところに祖父の実家があって、今から55年前に子供の

ない祖父の弟夫婦のところへ母が養女分として入り、大叔母の方の親類から

婿を取るという話が持ち上がっていたが、大叔母の親類の男性はなんという

か、要するに男前が悪くて19の母の気に入らず、母は半年で逃げ帰って

しまい、代わりに母の妹が16で養女分として行ったが、やはり一年くらい

で逃げ帰ってしまった。しかもふたりとも親元に帰らず、長兄を頼って横浜

に出てきてしまったのだ。

その後、誰も養子の来てがなかったのか、大叔父がなくなると、大叔母は

家を畳んで、自分の親類のいる地区へ住みかえてしまったらしい。

しかも、晩年どうかしていたのだろうか、大叔父というひとは、納屋を焼き

払うだけでは足らず、母屋もたたき壊してしまったらしい。

五島の地図を見ると、一本松や三本松はときどきみかけるが、肝心の二本松

という地名が地図上に無い。

二本楠のまちがいでは?と思いだしたところ、上五島北部地区簡易水道

二本松水系 二本松浄水場 などという活字を発見した。

水質検査表らしい。二本松浄水場はどこ?地図を探しても名前はみつから

ない。

二本松の松下と言えば知らないものはない。と母は豪語していたが、もはや

地図上に地名さえなく、知っていた人たちも死に絶えたことだろう。

だいたい税金というものを4~50年も払っていなければ、土地はすっかり

町のものだし、だいたい50年以上も前に、捨ててきた土地ではないの。

スカーレット・オハラはタラのためには妹の婚約者さえ奪った。土地という

ものはそれほどの執着心を生むものらしいが、犠牲なくして執着心だけを

もって年を取ってもらうと困る。

祖父は五島にいた時、檀家総代の曽祖父の代わりに寺の仕事もして、ゆくゆ

くは村長にという道が決められていた。

しかし、島の不便な生活や、大舅に姑。長兄夫婦にその養子の四男夫婦なぞ

のなかで、母の長兄と次兄の子育てをする辛抱ができなかった祖母は、ある日、

船着き場へに一本道を、山坂を一息に降りて行ったそうである。

すると、高い木のてっぺんに登っていた母の次兄が祖母を見つけ、

「かあちゃ~ん どこへいくとね~」と叫んだそうだ。

祖母は後ろを振り返らず、まっすぐ船着き場を目指す。

しかし空から、「かあちゃ~ん かあちゃ~ん」と何度も呼ぶ声がする。

祖母は踵を返して戻って行った。

その後夫婦の間で話し合いがあったのだろうか、祖母がどうしても田舎の

生活は嫌だと言い張ったのか、ほどなく家族四人で市内に出て行くことに

なった。おかげで母も生まれたわけだが、そこで夫婦が分かれていたら、

私も今、ここにいないんではないだろうか。

だから祖父にしてみれば、自分の生家を誰かに継いで欲しいという思いが

最後まで残っていたのだろう。二人しかいない娘を、つぎつぎ養女分として

送りこみ、どうにか後を継がせたかったらしい。

しかし、どうして娘を送りこんだのだろうか?むすこが5人もいるのだから

だれかひとり養子に出していれば良かったのでは。

祖父は「子供を養子に出すものではない」という信念を持っていた。

だが、娘ならどうせ嫁に出すものだから、養女分にしたのだろうか。

祖父はやはり、未練があったのではないだろうか。自分の生家に。

四人兄弟の二男で、本来なら家を継ぐ立場に無いので陸軍軍人として生きて

行く予定であったのに、他の兄弟にことごとく子供ができず呼び戻され、

それならばと村長になって骨をうずめようとしていたら妻に反対され、

町で慣れない会社勤めを余儀なくされた。

生家を存続させる以上の仕事ができなかったという思いがあったのでは

ないだろうか。

それにしても、婿を大叔母の方から取らねばならないというのは、ずいぶん

妻の権利が上がったものだ。戦後の民法のおかげか。

なにせ大叔父の妻たちは、子供ができないというので何人も地所をつけて

返されたそうだ。もう分けるほども財産がなかったのかもしれない。

祖母が子宮がんになったとき、祖父が借金を申し込むと、祖父の長兄の妻は

「そんな大金は用意できないが、あなたの取り分の山を売れば出来る。

そのかわり今後一切、こちらからの援助はできない。」といわれ、その条件を

飲んだそうだ。

それでも血筋のものと言えば、祖父の子供たちしかいない。

そのような事情で娘を養女分として婿を取るという話が出来上がったの

だろう。

しかし大人たちの都合やもくろみを吹き飛ばす娘心。「背が低くてぶさいくな

男は嫌。」

まあ母達の選択は正しかったかもしれない。弟も従弟も長身でまあまあの

男前だから。

綾小路きみまろ は、美人も50まで、50過ぎたら内臓勝負と笑いを取って

いるが、人間の体は内臓だけでできてはいない。骨格というものも大事なの

だ。それから、「皮膚は最大の臓器」という。肌が合う合わないともいい、

それは人と人だけでなく、人と土地にも相性があるということではないだろ

うか。

それにしても、本当に、どこへ消えてしまったのだろうか。

二本松の家から級長だった母の長兄は小学校に通い、もっと山奥から通って

来る子供達には帰りが夜遅くなってできない町へのお使いをたのまれ、一回

行くと5円もらえたそうだ。

二本松の地所を相続したらどうなるか、母の長兄は役所にシュミレーッション

してもらったらしいが返答は、「サラリーマンの年金生活では維持して行くの

は到底無理」というものだった。

大叔父がたたき壊してしまったという大きな茅葺の家。民家園のような

ところへ行くと、母が懐かしがって、うだつや上がりかまち、大黒柱やそのた

もろもろのうんちくと昔話を始めるので閉口する。なにせこちらは一度も、

写真ですら見たこともないうえに、母だって19のときに捨ててきた家なのだし

大叔父がたたき壊してもうない家なのだ。

それでも、一本松と三本松は地名があるのに、消えてしまった二本松の、

近くの寺に、先祖が眠っているのかと思うと、不可思議な気分になるので

ある。



  


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2009年12月29日

転移性攻撃なのかな


じゅんじゅんです


さて、まっさんは私より7歳年上だが、大きな声で怒鳴るとか、殴る

とかはしないひとだ。私の父親もそうで、まじめに仕事場と家を往復し、

浮気はせず、ギャンブルもなし、妻子を養っている。

父とは幼児期に3年という年月、別居して暮らしていた。父がサナトリウム

に入ったからだ。

0歳児の私が父に公園のブランコで遊んでもらっている写真が残っているが

記憶には残っていない。

私の記憶にある最初の父の姿と言葉は、日も暮れた台所でたたずんでいる

私に父が、「じゅんじゅん。おかあさん明日帰って来るよ」と声をかける映像

である。それは弟がうまれた後のことで、母の退院前日のことだったようだ。

弟が生まれた日、父は弟を見るより先に、病院から近隣の親戚中を飛び歩き、

「長男が生まれた」と報告してまわったらしい。

次の父の記憶は、祖母と二人、私と弟の前に座っていて、わたしは母に教え

られていた通り「おとうさん。おばあちゃん。」と呼んだが、弟は「おじさん。

おばさん。」と呼んでいる。私は弟をとがめながら、がんとして「おとうさん」

とは呼ばない弟がうらやましかったのを覚えている。

父は弟をてなづけようと、ウルトラセブンのブリキのおもちゃを買ってきた。

5歳の私が見ても、高価なものだと解った。

父はわたしに「さくら人形」と呼ばれていた、目に星の入った布製の人形を

買ってきた。わたしのはついでだ。しかし弟がウルトラセブンを壊したか

汚したかして母に捨てられた後も、わたしは「さくら人形」をずっと本棚に

飾っておいた。ついででも、一応、父の愛情の証しだったのだ。

父はセンチメンタルな男で、またサナトリウムではすることもなく、詩を

かいて、母が送った私と弟の写真の横に、自作の詩をおいて、アルバムを

作ったりしていたようだ。

わたしがそのアルバムを見た感想は、「こんなおセンチな詩など書いていな

いで、私や弟にハガキの一枚も送ってくれればよかったのに」だった。

私にとって父は長い間「不在」だった。それは再び同居した5歳から、一緒

にバージンロードを歩いた時まで、同じだった。

今は父は老人になってしまい、私も弟も、「自分に対してより父にやさしい」

と母はいう。それは仕方がない。母は老いても変わらず母だが、父は良く

知らないおじさんから、老人になってしまったのだから。

父の定年が二年延び、喜んでいる母をしり目に、わたしは修士課程の募集

要項を取りに走ったものだ。

学費の塩梅もせずに試験を受け、受かってから母に報告した。

ちょうど母が、父がサナトリウムに入っている間、私達を預かってくれた

祖母の看病に実家に帰っていた。祖母の死期は半年後に迫っており、私の

学費を出してくれるということになった。

私は生れてはじめての一人旅をして、学費を受け取りに行った。途中、室生

寺に寄り、祖母の病気平癒の祈祷もうけた。奈良の宿では、一人で泊まると

いうので不信がられ、夜遅くまで宿のおかみが部屋を出て行ってくれないの

で閉口した。

帰ってくると、父が「これからは苦学になるから、がんばりなさい」という

のだ。わたしは大学時代からバイトをして奨学金ももらっていた。充分苦学

している気でいたので驚いた。

私が高校二年の時、化学と生物だったかいい成績を取ったというので、いき

なり2万円をくれたことがあった。あまりにも唐突で、私の感想は、「ご褒美

くれるならもっと早くいってくれればもっと頑張ったのに」(われながら最低

なやつ)そういえば中②の頃かコマネチをみて「努力している人は違うんだ」

みたいなことを父がいうので、「わたしが努力してないって言うの!?」と

即座にかみつき、「そんな意味で言ったんじゃないよ」と父はうろたえたが、

もちろん努力してないから脊髄反射したんである。もっと粘り強く静かに教

え諭してもらえてたら、もう少しましな人間になったんじゃないかとおもう。

まあ人のせいにしてはいけないが。

ことほどさように、私と父の関係はぎくしゃくした不器用なものだった。

愛情を感じないわけではないが、私が必要とする愛情でも十分な愛情でも

なかった。過保護で、かといえば放任で、思い込みが激しく、優しいかと

思えば非常に厳しいことばを投げつける母の愛情と比べても、絶対量も少な

く、表現力も乏しかった。

その飢えを、ひとはもたらした相手に求めることはしないようだ。

むしろ他者との関係に、その飢えの充足を求める。

わたしは、まっさんに、「父の不在」の対価を払ってもらおうとしているの

だろうか。

学習する機会のなかった「甘える」という行為を、まっさん相手に実践しよ

うとしているのだろうか。

しかし子猫の肉球を気取っても、虎のこの牙や爪かもしれない。こって牛の

引きかもしれない。

今日も病院通いの私の代わりに、換気扇の掃除をしてくれたまっさん。

帰ってきてキッチンに立つと、どうもすっきりしていると思ったら、レンジ

横の調味料台の調味料が、ごっそり反対側の戸棚の引き出しに入っている。

「使う時に出せばいいじゃん」「嫌だ使いにくい。いいわよ。もう料理しない

から。」絶句するまっさん。「あとで自分の好きなように直しておけよ。。。」

父に比べれば、まっさんは家事などもいろいろしてくれるしやさしい。

けれど、どうしても、的外れな優しさに思えて苛立ってしまうのだ。

もっと「父なるもの」に対する恐れがじぶんの中に欲しいというか。

まっさんはわたしが元気そうでにこにこしていると安心する。

生活費をいつもより多少多くくれるとき、おもわずにんまりしていると、

「現金な奴め」といいながら、うれしそうだ。

だけど、私が苛立ったり、怒ったりしている時は、途方に暮れるか絶句する

かふざけながらなだめるか、なのだ。ご機嫌を取るというか。

それで不満というのはわがままなのかもしれないが、父にぶつからないで

済ませてしまった分が、まっさんに対する攻撃になっているのかもしれない。

苛めているつもりはないが、攻撃される方には、苛めですな。

でもそれだけ、まっさんが、一番近い存在なのかもしれない。

弟に転移性攻撃を仕掛けてもなあ。。。仕掛け返しされるのがおち。

というより彼は15カ月の娘の養育に熱心である。

これはきっと「父の不在」の彼なりの代替え作用だろう。

とても健全ですね。。。私の方は。。。病んでるか。まっさんが健全なので、

物足りないとダダをこねてるような気がしてきた。

う~ん。ないものねだりしても自分が苦しいだけ。まっさんがくれる健全な

愛情だけで満足。。。出来ないんだよなあ。仕方ないの。

不足分は想像力で補うしかない。あと、不足は不足で「存在することを認

める」ということですか。

父は子供がいても父になれなかったが、私は子供もいないし母になれない。

父と私は磁石の同極のように、似ているのかもしれない。








  


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2009年12月28日

祖父の格言シリーズ② 子供を打つな からかって泣かすな


じゅんじゅんです


私の祖父は陸軍幼年学校・士官学校の出身で、30過ぎまで独身でした。

縁談が持ち上がった時、当時のお金で60円の借金が花柳界にあったといい

ます。五島の曽祖父がすべてチャラにしてくれたそうです。

それというのも長男夫婦に子供がなく、三男は早世、四男が長男夫婦の養子

となっていましたが、こちらも子供ができなくて、3年ごとに嫁さんをとり

かえて、そのたびに地所をつけて返すので物入りで、一人独身で残った次男

の祖父に嫁を取って、村長でもさせて手元に置こうという算段だったようで

す。

私の祖母が初めて祖父の実家にあいさつに出向いた時、玄関でいきなり噴出

したそうです。

かねて話には聞かされていたが、幼児用見たいな黒い鼻緒の草履のそばに、

16文キック並みの大きな赤い鼻緒の草履が置かれていたからだそうです。

そう、私の曽祖父と言う人は、体が弱くて小さくて、箱火鉢のまえで、煙草

を吸うのが仕事のような人で、たまさか田畑を見回りに行くときは、曾祖母

が背負った籠の中にちょこんと座って運ばれていたんだそう。

曽祖父の知能程度は定かではないが、曾祖母の方は侍の娘で、読み書きそろ

ばんもできて、「気は優しくて力持ち」と母の長兄が話すのを聞いたことが

ある。明治維新で侍が失業した時、曽祖父の父親が休耕田を開放して、世話

をしたらしい。「うちは体の弱い一人息子がいるだけだから」と言うのが理由

だそうだ。その時の侍側の世話人が曾祖母の父親で「あそこの家には世話に

なった。お前嫁に行ってくれ。」と言われて曾祖母は嫁いだそうだ。

これが長兄の話で、ストーリーテラーの母にかかると、曾祖母の父親が息子

のために嫁さがしをしたが「村で一番大きい女をもらおう。そうすればひ弱な

息子でも子供ができるだろう」と村中を探したが気に入らない。

隣村にそれは体の大きい娘がいると聞いてはるばる会いに行くと、そこは水

飲み百姓の小屋で、中にはこどもがうじゃうじゃといて、中でもひときわ体の

大きな娘がいて一目で気に入り、嫁にもらった。と言う話に変化する。

まんが日本昔噺じゃあるまいし。もっともかごに入れて担いで歩いたのは

本当らしい。

祖母も背の高い女だった。164センチあった。

祖母の妹は158センチくらいしかなかったしその夫も「五尺0寸0分であり

ま~す!」と徴兵検査で叫んで不合格になったらしいが、祖母姉妹の父親は

180せんち以上あって、隔世遺伝か大叔母の息子たちはたいがい揃って背が

高く、冠婚葬祭で黒いスーツで並んでいると壮観である。

息子のお嫁さんをもらう時、大叔母の基準は「こまんかもんはものの役に立

たん。おんなはふとかとがよか。」というものだった。

この大叔母は「こどももまごも、おおぜいもたんばつまらんと。大勢おれば、

あの子の話はどうなったかな~と思う間に次のこの問題が起き、そのうちに

最初の問題は解決しとっと。」という眼から鱗の大爆笑格言を言い放った。

そこにいくと、祖父のいうことは、おかしくもなんともない。

しかし、ついやってしまうという点では、こころしておかねばならないたぐい

のことである。

それは、こどもを打ったり蹴ったりしてはいけない、ということだ。

それでは叱っていることにはならない。自分の怒りを発散させているだけだ、

と。母親が多少ヒステリックに大きな声を出すのもいけないのだが、大の男が、

大きな声で子供を威嚇するようにどやしつけてはなおいけない。

子供は最初はびくっとするが、そのうち大声に慣れてしまって、むしろ、

見つからなければいい、父親のいないところなら大丈夫、と思うだけだ、と。

しかるなら、ゆっくりと教え諭さなければならない。反省させなければなら

ない。「ダメ!ではなく、いけません!と言いなさい。」そして、手を押さえる。

体を止める。危ないことをしそうになっていたら、その場で止めて、教えな

ければならない。おもしろがって走り回っているのを、後から追いかけては

いけない。こどもは遊んでくれると思うだけだ。と。

そして、最も子供にしてはいけないのは、「嘘をつくこと?」いいえ、から

かって泣かすことである。

母親がキッチンなどに引っ込んで何かしている時、こどものそばにいる大人

が「あれ~おかあさんがいない。お母さんどこかへ行っちゃったよ」などと

行って、こどもがべそをかいてるのに、「どうしようか。おかあさんいないね」

などと追い打ちをかけて泣かしたりしてはいけない。

また、ひとりで他の部屋へ行こうとしてる子供の後ろから、怪談のバック

ミュージックのような効果音、「ひゅ~」などと言って、子供の恐怖心を

あおって、泣かせたりしてはいけない。

たとえば鉄棒でもすべりだいでも、「OOくんは年下なのに一人で出来るのよ」

とか「大丈夫だから、はやくしなさい。臆病ったれね。」などと言って傷つ

けてはいけない。

「臆病なのではない。用心深いのは賢いからだ。何も自分で考えずにやって

しまう蛮勇で解決することなぞ、社会に出たら何もない。」

祖父は大人しい私には特に何も言わないし、ぜんぜんかまってもらった記憶

がない。私のお守は祖母の担当だったのだろう。

はいはいすれば蚊取り線香を食べる。縁側からまっさかさまに落ちる。

タンスの取っ手に足をかけて登り、その上からジャンプして降ってくる。

そういう弟を外に出す時、祖父は地面を歩かせず、常におぶって歩いていた。

近所の他の年寄りから、「自分の体が疲れるのに、孫可愛さにおぶって歩いて」

と笑われた祖父は、「孫がかわいくておぶっているのではない。けがをさせ

たら娘が悲しむ。それが申し訳ないからおぶって歩くのだ。」とめずらしく

怒ったそうだ。

おじの一人が食事中に自分の子供をおもいきりたたいた時、祖母は、「じい

ちゃんは一度も子供をたたいたことはない。あなたも父親にたたかれて育っ

てもいないのに、なぜ自分の子供をたたくの!」と怒って、そのおじの家を

出て、ほかのおじの家に行ってしまったそうだ。

自分の子をたたいたおじは、私の甥っ子がちいさいころ、上に書いた

「おかあさんどこいった?」をやって甥っこを泣かせ、母が「なんで泣かすの

機嫌良くしてるのに!ばっかじゃないの」と激しく怒り、そのおじが中座

すると甥っ子は泣きべそがたちまち笑顔になり、「行っちゃったね!」と

皆に確認を取るので、他の叔父が「行っちゃったねか。こりゃあいいや」と

大笑いしていた。

「じいちゃんが、子供をからかって泣かせちゃいかんと言ってたのを聞いて

なかったのかしら。三つ子の魂、百までっていって、からかわれたり、

馬鹿にされたりしたときの気持ちをずっと覚えているって。だから小さい

こどもをぶったり、からかって泣かしたりしちゃだめなのよ。もっと大事に

かまってやらなきゃ。」と母は言っていた。

母は確かに優しいところは驚くほどやさしいのだが。。。なんというか怒る時

はかなり感情まかせだったと思うわ。私と弟は同居してた父方の祖母の部屋

に避難するだけじゃ足りなくて、母の機嫌が悪くなる日暮れ時になると、

仕事から帰る祖母を迎えにバス停まで行って、時には一時間以上待っていた

ものだった。

祖母こそ、こどもを打ったり、からかって泣かしたりしないひとだった。

母が大きな声を出して怒りだすと、まず祖母が退場。

私達もすきを見て祖母の部屋に退場。毎晩3時間くらい一緒に時代劇を

見ていたな。

祖父との思い出は無いけれど、祖父から父方の祖母にあてた手紙があって、

父がサナトリウムにいて私達は祖父に預けられていた。祖父の手紙は

「O子さんもO(弟の名)さんも、元気ですからご安心ください」という

ような書き出しだった。「自分の孫なのにさんづけ?」と聞くと、母は、

「外孫だからね」と言っていた。この祖父が長生きしていてくれたら、

私は長崎で就学していたかもなあ。。。なんて思います。

小学生の母が新聞を音読して読めない字を飛ばすと「それはOOと読むと」

と答えてくれたそうだ。

祖父は母が遠くに嫁に行くのが気に入らず、結婚式に出なかった。

それでも私達を引き取って、面倒を見てくれたのだ。




  


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2009年12月27日

結露

まっさんです。

この時期、朝起きて窓の内枠をみると、水滴がびっしりついていますね。

これが結露です。

結露はインテリアにも甚大な影響を与えます。

まず、壁の下地に結露が発生すると、壁紙の中側でカビが増殖し、健康に害

を及ぼす危険性があります。

また、壁紙の寿命が短くなってしまいます。

また、構造体にも腐朽菌による構造破壊が起こる可能性が、なきにしもあら

ずです。

では、この結露はどうやって起こるのでしょうか。

空気の中にはある一定量の水蒸気が含まれています。

単位はkg/㎥で表されます。これを分かりやすく説明しましょう。

空気は温度が高い程、水蒸気を多く含む事が出来ます。

そして、これ以上水蒸気を含めない限界点が飽和水蒸気量です。

例をあげましょう。ある温度の空気の飽和水蒸気量が50あるとします。

そしてその時の水蒸気量が仮に30あったとします。

そうすると50:30=100:60の関係が成り立ちますよね。

つまりこの60が、相対湿度60%といわれるものなのです。

では飽和水蒸気量が40になったらどうなるでしょうか。

40:30=100:75になります。相対湿度が75%まであがった事になります。

結露まであと25%という訳ですね。

この関係を簡単に説明したグラフが湿り空気線図です。

これで、結露が出来る過程が納得してもらえたと思いますが、なに、今いち

よくわからない。

そうですか。もう少し噛み砕いて説明しましょう。

空気中に含みきれない水蒸気が結露となるというのはお分かりになったと

思います。

例えば飽和水蒸気量が30で水蒸気量が30。つまり露天温度に達してしまっ

た場合に結露が発生するわけです。

ですからこの露天温度に達しないよう湿度をコントロールする事が重要な

のです。

よく結露が発生する場所は窓の辺りですよね。

この場所の温度を暖めて、飽和水蒸気量を高めてあげる事が結露をおこさせ

ない方法であるということです。

下のグラフは湿り空気線図です。

まっさんでした。

  


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2009年12月26日

体感温度


まっさんです。

インテリアと体感温度とは一体どういう関係があるのでしょうか。

あんまり関係がないと思われがちですが、生活に密接な分野を担っているイ

ンテリアコーディネーターにとって、寒さ、暑さ、湿気、対流、放射、着衣

量、作業量といった感覚は、常に商品選択やリニューアルを行う場合の工事

材料の選択等に多くのヒントを与えてくれる材料になるのです。

では、少し詳しく体感温度について述べたいと思います。

体感温度とは人が暑さや寒さを感じた時の感覚ですが、そこには外気との熱

のやりとりがあるからです。

そのやりとりの結果、寒いと感じた時は着衣料を調節したり、冷暖房装置を

使うわけです。

この熱のやりとりに関しては前に述べた事がありますが、覚えていらっしゃ

るでしょうか。

そう、外部の熱との交換は、対流、放射、蒸発が密接に関連しあっています。

もう忘れてしまっていると思いますので、ちょっと説明しておきます。

まず、「対流」です。

最近の家では換気装置のある家が多いかと思います。

この換気の際の熱の移動が対流です。

対流があることによって、人の体感温度が左右されます。

「放射」とは放射熱によって惹き起こされる熱の移動で。太陽洸や暖房装置

の放射熱が代表です。

「蒸発」とは、水分が蒸発する時、周りの熱を奪う現象があります。

この蒸発の際に奪われた熱は夏だと気持ち良いのですが、冬は歯がかちがち

噛み合わなくなるほどの寒さになります。

では、この体感温度にはどういった使い方があるのでしょうか。

有名なのが、「ヤグローの有効温度」です。

この尺度は温度、湿度、気流を体感温度の尺度としています。

その他に新有効温度といった尺度もあります。

この尺度は寒さ、暑さ、湿気、対流、放射、着衣量、作業量といった感覚全

てを尺度の対象にしています。

これらの尺度は、人間が快適な生活ができるような環境を作るための指標で

あるということがいえます。

下の図は(財)省エネルギーセンターの資料です。

まっさんでした。


  


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2009年12月25日

おばあちゃんにはできない。。。うふ



じゅんじゅんです

超音波とマンモがすんで、診察に行ってきました。

「触診がありますよ」と深刻な顔つきで担当医が言っていたので、また、

超音波とマンモの技師は女性だったので、乳腺外来の医師は男性なのだろう

と勝手に思っていましたが、乳腺外来の「3時間以上待ち状態」のおかげか

初診の私目の診察は午後になり、それも3時近くになったためか、それとも

乳腺外来の初診は女性と決まっているのか、わかくてかわゆい、女性医師で

した。

しかも、パソコンの画面には超音波の画像、壁にはマンモの画像、間に挟ま

れて、ミディアムヘアのちょっと垂れ目の小顔がバンビちゃんみたいな女医

さんが立ち上がって出迎えてくれて、「何も心配はなさそうですよ」とまず

言ってくれたので、ほっとしたのでした。

おまけに「のう胞も、そんなに悪者ってわけでもないんです。水の多いとこ

にできやすいです。おばあちゃんにはできない。。。うふ(とは言わないが

そんな感じに聞こえるの)。」

しかし私は苦笑い。。。そうかのう胞でなやんでるうちが花か。これなくなる

とむしろ垂れるかな。

「触診はいいんですか?」「しますか?でもマンモでも問題ないし、しなく

ても大丈夫と思いますよ。なにか気になる症状がありますか?」

「ちょっと痛みがあるんです。。。」「乳腺は痛みを感じやすいですから、痛む

ことはよくあるんですが、大丈夫ですよ。」

それでも触診してくれと言い張るほど心配でもないので、大事にしまっとき

ました。

わたしの大きな柔らかい胸を先生の小さくて細い手があちこち押す。。。

ちょっと気持ちいいかも。でも恥ずかしいな。

「じゃあ、いいです。安心しました。」「大丈夫ですとお手紙書いておきます。」

お手紙か。。。ここの女医さんはわかくてきれいな人が多いけど、30そこそこ

のひとばっかり。OVER30はどこへ消えるの?

結婚して、どこかほかの病院へ移るのかな。

女性外来もないし、泌尿器科に女性医師の診察室もないし、とても女医が

不足していると思いますよ。

ただ大学病院の勤務体系がね。。。結婚したり子供が欲しかったりしたら

外来・手術・当直の連続で、看護師より激務。論文・学会・研修と「私だっ

て奥さんが欲しい」状態になりますものね。

9時5時の公務員(今でもそうなのかな)の夫を持って主夫してもらうか、

実母と同居OR近居して保育園の送り迎えから父母会のお仕事まで代行して

もらうかして、子育てするしかないですよね。

それとも今の30代は共働きで子供はとりあえず考えない というのが主流

なのかもしれない。

30代で考えないというのは、つまり子供は持たないが前提と言うことなん

だけど、そこまでは考えない。

当直がしんどくなる30代半ばで、たまたま結婚してたら子供作って仕事は

少し休んで、転職するか、親の後を継ぐか開業するか。。。転機が一度に来る

のでしょうね。今は女医さんだけでなく、OLでもそうだから。

ただ医大生は教育されてるでしょう。「医師免許を取ったら、仕事を止めては

いけない。一人の医師のためにどれだけの国費が使われているか」と。

それでいて、大学によって学費がものすごく違うんですよね。

まあ成績と良い医師の条件って違うとは思うけど、良く言われるように頭いい

だけで医師を目指すというよりも、「どこまで学費を出せるか」で医師になれ

るか決まるという感じがする。

もちろん国家試験と言うものがあるし、医学部にも中退者はいる。

けれども女性が医師を目指すか看護師になるかと言う境目に「学費」の問題は

皆無ではない。

それは親の意識とも無関係ではない。

ただ、娘を「嫁にやる存在」としてだけ育てる親は、この少子化の時代、

むしろ希少価値である。

他の兄弟と同程度に、あるいはそれ以上に投資して育てている。

見返りを求めるのだ。それはむすめの「女としての幸せ」よりは「職業人

としての成功」だ。

もちろん「職業人としての成功」の後で、「女としてのしあわせ」もたやすく

手に入るはずと親は信じている。

しかし時間制限があるのだ。

むかしは35歳以上の出産は 丸高と呼ばれていた。高齢出産の高の字を

丸でかこんだ赤い判を想像してくださいね。

また、夫が37歳以上の妻の出産では、障害のある子どもの出生率が上がると

いうデータもある。ダウン症の出生も高齢出産に多いようだ。

だから医学部を出て前後期の研修5年間のうちに30を超える女医は、OVER

30で大学病院を消えるのだ。

前後期研修の各一年を大学病院での勤務研修に来ているだけの女医も多い。

だから若い女医はたくさんみるが、いざベテランの年齢になると。。。いない、

と言う現象も起きる。

私の友人の一人は、外科医になりたかったが体力的に判断して麻酔医になっ

た。

半陰陽と言う存在を知っていますか。

オリンピックの陸上競技などでSEX チェックをするのは、女子選手の中

に、そういう人がいないかを探すためなのです。

実は男性だが、半陰陽のせいで出生時女性と届けられたひとが、その身体能力

の高さゆえに、他の女性に対して不公平な存在となるというのだ。

病院の階段の踊り場の椅子に座って休んでいると、そこが3階だというのに

駆け上がってきた医師がいて、驚いて顔を見ると、いつもの担当医で、35歳

くらいなのに、朝から体力あるなと感心したが、若い研修医の女医が階段を

駆け上がってくるところは見たことがない。

エレベーターを待っているのがもどかしい、時間がもったいないという感覚

は若くて体力がありあまってる男性の発想なのかもしれない。

互角に戦わなければならないのに、子供を生むにはタイムリミットがある。

悩ましい問題である。

女性専用のクリニックを持った方が金銭的にも時間的にもいいのだろう。

男性は、それぞれが独立した存在で、それぞれ独自に研究し、その中で

一番すぐれているものを決め、それに従う、上下関係がはっきりした体系を

好むそうだ。

それに比べて、女性は、みなで協力して、相談の結果、ひとつの成果を出す

ものだそうだ。

大学病院と言うのは、どうしても前者、男性的体系なのかもしれない。

どうしても女性が続けて行くには居心地がよくない職場なのだろう。

同じ言葉でも、若い男性医師には言えないと思う。

「のう胞も悪者ってばかりじゃないです。おばあちゃんにはできない。」

うふ。っと女同士、しばし「わかいおんな」としてのシンパシーを楽しむ。

いいなあ。若い女医さん。

しかし、こちらが本当におばあちゃんになったら、孫息子みたいな若い医師が

良くなるのだろうな。

私は少し前までおじいさんな医師が好きだったが、最近は男性医師も女性

医師も30代くらいの一人前になりたてな感じが好きである。

10年修行しましたくらいというと、少年が野球を始めて甲子園に出場する

くらいだろう。

みんな6~7歳からはじめて、リトルリーグを経て、甲子園に出るのだ。

そのあたりが人生の花である。

そのあと、生き残ってプロになるのは一握りのひとたちだ。

「おばあちゃんにはできない。。。うふ。」なんてかわいらしさを残したまま、

40代の医師にはなれないだろう。

初々しい乳房のままおばあちゃんになれるひとも中にはいる(私の祖母が

そうだった)が、老衰で死ぬ時には乳房ものう胞もなくなるのだ。

「マンモは嫌」とかいってないで、やっぱり2年後には2回目をやっておこ

う、とバンビチャンの笑顔を見つつ、決心していましたとも。


下の乳房の写真を見るたび「2.。。20代はこんな感じだったな。。。」と思うの

です。こんな硬かったら、マンモできないな。。。かなり痛いでしょうね。






  


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2009年12月24日

大沢たかお のフェロモンについて


じゅんじゅんです


今期のドラマで楽しみにしていたのは「仁」

感が当たって大変楽しく見ていたのだが、最終回は大宣伝の割に

謎が何一つ解決出ずに終わるという消化不良状態であった。

あの胎児の型をした腫瘍はなに?「仁 全16巻を読んでね」って

ことなのか?来年続編で引っ張るつもりなのか?

まったくドラマのTBSらしからぬというか、復活したがってる

というか、ドル箱当てたら、次は柳の下のドジョウ狙いか、視聴

者をナメテルよなと軽い怒りを覚える。

しかし今回のドラマで再認識したのは「大沢たかおのフェロモン」

である。彼は「解夏」とか「深夜特急」とか、前にも主人公が

真剣に悩み苦しむようなドラマに出ているのであるが、どうも

いまひとつ引きつけられるものがなく(お話にね)見ていなかっ

たのだが、今回の役も、やはり主人公は悩み苦しみ困り泣くとい

う延長線上の役柄であった。

私の好きな映画に「ワイルドギース」というのがあって、主演は

リチャード・バートン、ロジャー・ムーア、リチャード・ハリス、

ハーディ・クルーガーといった男臭い、渋い連中。

リチャード・ハリスが「おいおい。いったいいくつ違いの妻だっ

たんだ?」と突っ込みを入れたくなるくらい、幼い息子に戦場に

行く前に別れに行くんだが、その美少年が唯一例外に若くてきれ

いな他は、徹底的に男しか出てこない。

「仁」は現代の恋人(原作には存在しないとか?)にそっくりな

花魁と、最初に手術した若侍の妹である綾瀬はるか扮する旗本の

娘が出てくるが、ふたりとも、「ワイルドギース」における美少年

のような役割しか果たしていない。それがすがすがしくて良かっ

た。

惚れたはれたの話が入ると、とかく中だるみするドラマが多いが

原作にはない恋人の存在を発明した人はすごいと思うのは、花魁

と旗本の娘、ふたりとも「仁先生」の眼中にないという状態を作

りだし、それが不自然ではない雰囲気を作り出したことである。

それで物語の主柱が「医学の進歩と運命の変化」という「謎」に

置かれて、みる者の関心をドラマ全体に集めたというところに、

今回の成功があったと思う。

それだけに、「あれ?終わりなの?!何も謎が解明されていないじ

ゃん」と言う不満を残したのは惜しまれる。

続編を作るなら作るで、「坂の上の雲」くらい、次回の日程を

組んで宣伝しておいてほしいものだ。

今回、最終回に間に合うように、二週にわたって毎日(初回は二

話続けて)再放送をしていたのも、あまりにもあざとい手法と

思われる。

さて「大沢たかお」をこの「仁」で初めてみて、惚れてしまった

人がいたら、続編まで我慢することをアドバイスしておきたい。

なぜなら、「仁」における「大沢たかお」は「レインマン」におけ

る「トム・クルーズ」並みのはまり役であったから。

「カクテル」をあわてて見に行って、「レインマン」のトム・クル

ーズほど格好良くない(かっこつけた役だが)とがっかりした人

は大勢いたのです。みんなアカデミー主演男優賞を受けたのは兄

役のダスティン・ホフマンだと知っているでしょう?

トム・クルーズは共演した俳優に主演男優賞をもたらす役者とし

ても有名で、ポール・ニューマンも共演作で主演男優賞を取って

いる。

「大沢たかお」は「助けられてしまうひと」の役が本当にぴった

りで、坂本竜馬や緒方洪庵にかまわれている時の方が、花魁や

旗本の娘に焦がれられている時よりも色っぽく見えるのだ。

いったい何度、手を引かれて走ったことやら「仁」先生は。

この「ちょっと鈍い」男性と言うのは、以外にモテルものなのだ。

のちに恋人になる女子学生に「お話があります」といわれて「告

白」かと怪しんで?(すでに相当うれしそうな顔だったのが笑え

る)ついていき、「お手紙?」とかいって「レポート」を受け取る

のだが、「鈍さ」ゆえに核心をついてるところが可笑しい。

そう。好きでもない先輩のために「レポート」書いたりしません。

そして「一途」なところも、モテの重要なポイント。

つれないそぶりに萌えてしまうのだ。女ってわからない。。。

とお嘆きの貴兄へ、どうしたら惚れられるかお分かりかな。

そう、惚れないことが一番の強みなのです。

そして「仁」先生は、医師として、十二分な技量を持っている。

花魁の先輩に「戻ってこい!」と言った時、花魁に「僕が治しま

す」と言った時、私は「仁先生」に惚れた。

患者になりたい(笑 なかなか「僕が治します」なんて言ってく

れないものだ。

いいとこ「我われ医師もがんばりますから、あなたもがんばって」

といわれる程度だから。

でも患者はやっぱり「僕が治しますよ。大丈夫」と言ってほしい

ものなのだ。

だから番組宣伝に出てきた「大沢たかお」の姿にはあまりフェロ

モンを感じなかった。

なんか軽く、「からっぽ感」のある人だなと思った。

ちょっとニコール・キッドマン型というか、「役になりきったとき」

は素晴らしいのだが、素のコメントは「頭。。。悪いね、たぶん。」

な感じ。

「仁」の撮影中、あまり普段は食べないというジャンク・フード

をかじりまくっていたらしい。

とりあえず、何か口にしていたいほど「疲れていた」らしい。

その状態がもしかして、あの「仁先生」のフェロモンを醸し出す

手助けになったのかもしれない。

続編を期待したいようなしたくないような気持ち。

それはあの「フェロモン」が「慣れ」からはおそらく出ないであ

ろうと思われるからだ。

そしてもうひとつ「さきさん」との関係が、今回は切なくてよか

ったのだが、続編では下手をすると「慣れあい」じみた関係に

なりかねないという懸念があること。

まあ原作にない「現代の恋人」の存在と言う保険がかかっている

が。

大沢たかおの眼は、瞼が腫れぼったくて、相当垂れている。

そして顔の表情筋がしわくちゃで、いつも医師として奮闘努力し

ているので、その皮膚は脂ぎっている。

けして「好いにおい」がしそうな感じではないのに、色気が出て

いる。

それは「子孫を残したがっているオスのフェロモン」なのかもし

れないが、それでいて当の本人はそれどころの状態でない。

「女の醍醐味は 美を乱用することよ」 特別出演のジャン

ヌ・モローが若い主演女優に口紅を塗ってやりながら口にする台

詞だが、乱用と言う訳より、むしろ無駄使い、浪費に近いニュア

ンスだと思う。

大沢たかおのフェロモンは、浪費される時、もっとも強いのだ。

そのことに、脚本家や演出家がちゃんと気付いていれば、続編も

成功するだろう。

本人はあれこれ小細工する必要はない。役になりきって、困った


り、泣いたり、鈍かったりするだけでよいだろう。




  


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2009年12月23日

まっさんとベトナム料理

じゅんじゅんです

まっさんは、生春巻き+スウートチリソースは大好きです。

ところがある集まりで、池袋のとあるベトナム料理やでの飲み会

のあと、私に言うのです。「俺、ベトナム料理、どうも好かん」と。

「何を食べたの?」「さあ~?ホーとか生春巻きとか」

「生春巻き好きじゃない、あなた。」「う~ん。それが美味くなか

った。」

そういう私もベトナム料理はあまり食べにいかない。

池袋の店、行ったことあるところかもしれない。ココナッツミル

クのアイスクリームが美味しくて、最初ランチのコースを食べに

行っていたが、とうとうアイスクリームだけ食べに行くようにな

った店があったっけ。何を手べていたかな。生春巻きと揚げ春巻

きとフォーだったっけ。ベトナム鍋は食べたことなかったな。

確かベトナムカレーとベトナムコーヒーなんかも食べたんじゃな

かったかな。

私はベトナム料理を思い出すために菊名と新横浜の間にある

ベトナム料理の店に行ってみました。

生春巻き、ありました。ただしソースはスイートチリでもチリマヨネーズでもなく、

ピーナッツソースです。

それに生春巻きに添えられた、たくさんの生野菜。本当に生。

これもピーナッツソースで食べるのだろうか。ピーナッツソース

が口に合わないとアウトだなあ。あと揚げ春巻き。写真で見た限

りでは、あまりさくさく感が伝わらないし、なんか焦げてるし。。。

またまた生野菜がたくさん。ソースは同じ。。。

フォーやビーフンも数種類ずつあるが、どれも同じように見える

ので数人で数種類をつつくのにはいいが、がっつり夕飯を食べよ

うにも選べない感じがする。

う~ん玉ねぎとチキンのベトナムカレー(ジャガイモが入ってな

いけど?前に食べた人のブログではジャガイモ入りとなっていた

が)+ライスが別料金を食べた(¥1000-)

スパイシーはいいが塩けも多いぞ。これライスなしで食べる日本

人いないでしょ。ちょっと高いカレーライスだな。具も少ないし、

汁も多くない。塩っけがきついから、ライスはぺろりだったが。

ビーフンやらいため料理も、う~んベトナム本場の味かもしれな

いが、もっとインドネシア料理屋やタイ料理屋のように洗練され

る必要があるな。

いくらシンハビールやベトナムワインがあっても、フォーは暖か

いと言っても、生野菜とピーナツソースと塩けのおおいスパイシ

―な炒め物だけでは、冬に人は呼べないだろう。

この店は、何せ場所が悪い。近所の人が夜食べにくるというよう

な感じでもない。

第一、 子供を連れていけないな。デザートメニューも記憶に残ら

ないほど何もなかったし。

ベトナムも昔、王制だったのだから、宮廷料理がありそうなもの

だが、ベトナム料理の店と言えば、なまか揚げの春巻きにフォー

が定番だ。王様は中国料理かフランス料理でも食べていたという

のであろうか。

横浜にも何軒か伊勢佐木町あたりにも何軒かベトナム料理がある。

今度、そちらの方の店でも探訪に行きたい。

それにしても、夏、昼下がりに、ビールとベトナム料理というの

が美味しいかもしれない。

ただ日本人は、枝豆にやっこに焼き鳥なんかで、初めはビール。

そのうち冷酒。しめはきれいにこじんまり盛りつけられたソーメ

ンのうえにゆでえびの一本も乗っかっていれば大ごちそうの大満

足という上品な胃袋を持っているから、ベトナム料理のスパイシ

―さは、定番になりそうもない。

まっさんはインドネシア料理のナシゴレンは好物だが、タイカレ

―はそれほどでもなく、ベトナム料理は好まない。

男性に多いタイプだが、きっと男性の舌は、ひと世代か二世代前

の彼らのママの時代のひとのままなのだろう。

幹事は女性の舌を意識して、ベトナム料理にしたのかもしれない。

それに中華に比べて、コース料金設定が低めだと思うから、懐を

慮ったかもしれない。ホルモン鍋も安いかもしれないがベトナム

料理と言う方がちょっとおしゃれ、とかいう意識もあったかも。

しかしまっさんとベトナム料理を食べる機会は真夏までないだろ

う。




  


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2009年12月22日

年賀状


じゅんじゅんです



まっさんは律義な性格ですから 毎年年賀状作りに熱心です

といっても、夫婦二人の顔写真を載せると決まっているので、工夫と言って

も、干支のイラストの位置とか文面とかを選んで、写真と組み合わせるだけ

のことですが、毎年新しい写真を載せるということが、結構大変なのです。

毎年春と夏に旅行に行きますが着ぶくれていたり花粉症でノーメイクだった

り、汗だくだったりむくんでいたりで、「この写真じゃいやだ」となって、

師走もおしせまってから近所のイルミネーッションで撮ったり川崎大師で

撮ったりします。実は明日も誘われているのです。

ある年など、とうとう写真を撮りに行くガッツがなく、前年の11月の海外

旅行でサービスでついてきた乾杯写真を使ったり、ある年などはもういいと

ばかり、婚約時代の写真を使ったりしました。

今年の年賀状の写真はやはり去年の師走にららぽのイルミネーッションで

撮ったものです。この時よりも10キロ近く痩せているので顔写真を比べて

見たい気もするのですが、待てよ、この11年間のどの写真ともかぶらない

衣装があるだろうか?コートは?かぶらないコートは白地のダウンしかない。

かえってもこもこに写るかも。。。

明日 昼の日中に コートなしで 写すしかなさそうだ。

しかし子供がいないので毎年毎年、変わり映えもしない中年夫婦の顔写真。

楽しみにしている人もいないと思うが、急にやめるのもなんだかつまらない

気がする。

いっそ年賀状ごと辞めてはどうか?と提案したが、「俺は出す」とまっさん。

年賀状と喪中欠礼、結婚してても自分の会社関係だからかとか友人だから

とか、自分だけの名前で出す人がいるが、離婚したのかと驚くからやめてね

と思う私は、年賀状くらい夫婦連名で出すべきかと思うのだ。

なんか「家族ぐるみの付き合いじゃありません」と、一段低く見られた気が

するのだ。まあ家族ぐるみで付き合いたいわけじゃないが、年賀状くらいねえ。

しかし A HAPPY NEW YEAR と言う気分ではない。

来年、私、中殺界なんですの。いろいろと今から予定がありましてね。

来年一年は、ちょっとはしゃげない時期になりそうです。

地道にダイエットと文章修業でもしようと思っていますよ。

私の30代40代は「いったい何をしていたの?」というくらい、無為に

過ぎて行った気がしています。

来年は40代最後の年。後半生にむけて、ちょっと、頭と心を微調整しつつ

ゆるゆる過ごそうと思っています。

そして美しい50代を目指すのだ。

生活のぜい肉も体のぜい肉もそぎ落とせたらいいなと思っています。

さて、年賀状は、ぜい肉でしょうか?それとも魅惑の胸肉でしょうか?

それは一年間の生活が、写真を撮りたいような楽しいことや嬉しいことに

満ちていたかによるのかもしれないなあ、と思ったりして。

来年の話をすると鬼が笑うといいますが、来年の今頃は、もう、年賀状も刷り

終えて、再来年の楽しみに、思いを馳せていたいなあと、期待しています。






  


Posted by massan&junjun at 22:15Comments(0)

2009年12月21日

新横浜日常 師走


じゅんじゅんです

プリンスペペと高島屋ルービックキューヴに行きつけのネイルがあります。

ペペの方は山野愛子美容室(生誕100年)高島屋の方はクイック・ネイル

です。

午後思い立って髪染に行き、カットと髪染とトリートメントだったので

意外と早くすみ、そうだネイルもクリスマスとお正月をひかえて、ちょと

きれいに塗ってもらおう、と。ペペに寄りました。

しかし、びっしり予約が入っていて無理。明日も明後日も。。。要するに

クリスマスまでびっちり。「すみません。ネイリストが一人しかいないもの

ですから。」いつも受付をさせられてたりして暇そうだものね。

この時期だけ他の店から助けを呼ぶというわけにはいかないのかな?

あんまり重要視されてないな、新横浜店。

仕方ないのでルービック・キューヴに行きました。

店の前まで行くと、ひとりが施術中。しかるに、入り口の壁にひもでぶら下

がっている紙にこう書いてある。「ただ今、午後6時からの施術承ります。」

時刻は5時45分。やった!

さっそくどっこいしょと椅子に座る。

予定ではヤマノアイコでチェックのフレンチにするはずだったが、予約取れ

無いなら仕方ない。路線変更。

前にグラデーッションにしてもらったが、あの時は爪が長めだったから映え

たが今回は短めだから(指先から5ミリくらいしか伸びてない)フレンチに

しよう。色目を見ると、ベビーピンクのフレンチにホノグラムを散らした

のがきれいでまっさん受けしそう。ま、気がつかないと思うが。

クイック・ネイルは予約も取れるが駅上にあるので、ついついみなさん、

会社帰りに覗いて、混んでたらまた、みたいな使い方をするのね。

しかし爪を整えるとか甘皮を処理するとか、あともちろん今までしてたネイル

をはがすとかがすべてネイル10本の値段と別料金だから結構な値段になるし

自分でできない作業じゃないから、だんだんお客さんは減ってるみたいね。

ららぽの小町やトウキュウハンズにカルジェルやホノグラムや筆やライトが

売ってるのでね。

ただ自分で爪先を赤く塗るフレンチにチャレンジしたけれど、癒しにはなら

なかったわ。3週間もったけど、毎日トップコート塗るなんて無理。

3日坊主。に終わったわ。

新横浜駅の地下にあるタクシー乗り場はガラガラ。タクシーだけが長蛇の列。

ここにクリスマスは、お客さんの列が出来るのかしら?

高島屋ルービックキューヴも食品売り場は商品券が使えるのに、その上の

ショップでは使えないの。これは困るし、お客さん、減るわ。

今はカードのポイントもキッチン用品よりは3000円5000円の

商品券に換える時代。服や靴に使えないなら、え~い!ステーキ5枚だ。

家族で幸せを感じようっと。になると思う。

ブーツだってコートだって去年やら一昨年のやら、何時買ったのか忘れたの

やらで充分間に合うしね。

NHKではエコの名の下、手作りバックを奨励したりしてるが、中原淳一様

推薦の風呂敷を二つ折りにして縫って持ち手をつけるって言うバッグと、

うりふたつであった。

そうすると、今は1940年代か?第二次世界大戦後すぐか?

そういえばオンリーやパンパン(差別用語だったらごめんなさい)なんて言え

ばいいんだ。現地妻や売春婦と言えばいいのか?そういう人たちしかして

なかったのネイル。当時はマニキュアといって、バブルの頃もそう読んでいたわ。

ネイリストの先駆者は、たとえば大村昆夫人。徹子の部屋でその技をお披露目

していたものだったわ。アートネイルみたいなものだったと思う。

今はマニキュアといえば男性がするお手入れ見たいな感じよね。

ジェルネイルからカルジェルとかいう方へ主流が移っているみたいなんだけ

ど、どうちがうのか明確には知らないの。

カルジェルは地爪がのびてきたら、ちょっと削って平らにして、また上から

塗って長持ちさせる方法があるみたい。けれどフレンチなどの場合、爪の先

を削ったら、何にも色味が無くなったりするし、まあ3週間かひと月の寿命

と思っていいんじゃないかしら。

たぶん私がじぶんで塗るなら色のついたホノグラムをベースとトップの間に

置くというスタイルに落ち着くと思う。ライトのいらない速乾性のコートが

あるし。一番簡単そう。

グラデーッションやフレンチは懐の温かい時にネイリストにしてもらいたい。

歩道橋の反対側のビルにいくつかネイルサロンがあるけれど、最近は行った

ことが無い。やまのあいこやクイック・ネイルもそうだが熟年女性を満足

させる色味が無い。

どうもデコレーッションやアートにディスプレイが傾いている気がするのだ。

みなさん自分でされているのかしら小母さま方。シャネルの新色を?

未亡人の叔母は一人住まいだからいつもきれいな色味をつけている。

毎週塗り直す時間もあるのだ。

わたしも時間はあるなあ。けれどカルジェルとかでないと、すぐ汚くなって

しまう。家事の仕方が荒いのか?そういえば叔母は必ずゴム手袋をして

キッチンに立つ。わたしはフライパンも紅茶茶碗も素手でわしわし洗って

いるものねえ。靴下とゴム手袋はうざくてだめなのよ。。。

ネイルクイックの壁に「お正月・成人式用」のサンプルが飾ってあったが、

着物にピアスも認めたくない私には、とうてい承認できない、安物の黒地の

帯みたいな色味。

せっかくここ数年、ネイルが市民権を得ていたのに、なぜにまたつぶす?

あんなネイルして来たら、お着物買ってくれた、おばあちゃまがパパが泣く

でしょ。で、頭は盛って花か羽根でもつけるのよね。世も末だわ。

いっそのこと成人式は花魁道中にでもしてしまいますか?

コスプレと間違えてんだから、そこまでいけば?

しかし今年の753ぜんぜんみませんでした晴れ着の子供。

来年の成人式も未曾有の不景気の影響が出るだろうか。スーツ率が上がった

方が、まっとうな式になるかもしれません。

新横浜のビル群は寒空に林立しているが地下で全くつながっていないので、

うろつくと寒さで肩がこる。

食事して買い物してマッサージにもなんてことは、体の寒さとお財布の寒さ

が許さない。皆がそんな顔をして歩いている感じがしています。




  


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2009年12月20日

冷房負荷計算の方法


まっさんです。

寒くなってきましたね。

近頃、地球温暖化が叫ばれていますが、体感としては地球寒冷化に向かって

いるような気がします。

それにしても、関東地方のここ2・3日の気温は低くなっています。

夏場までこの冷気をしまっておきたいですね。

では、早速本題にはいりましょう。

侵入熱量を計算するには、前回暖房負荷計算のところでも述べましたが、壁

や開口部、屋根、床といった場所から貫流熱が侵入してきますが、その熱貫

流と換気した時の熱損失と、天光から直接窓に侵入する熱量と、室内にいる

人の発熱、照明からの発熱を加えたものとされています。

熱貫流率は前回も述べたところですが、一㎡あたり、一℃当たり、一時間当

たりの熱の通過熱量の事です。

さて、この貫流による熱侵入量はどうやって計算するのでしょうか。

下に計算式を書きます。 

熱侵入量=熱貫流量×壁の総面積×室内外の温度差

なお、室内外の温度差については、日射の影響が考えられるため、日中の温

度差を調節するのに日射等価温度が用いられます。

意外と簡単でしょ。

ちなみに、人間の発熱量は、一人当たり100W程度です。

照明その他の電気製品からの発熱量はそのワット数の総和です。

余談ですが、日射というのは、まぶしい時もありますが、冬のこの時期には

ありがたい暖かさを感じさせてくれますよね。

陽の下で干した洗濯物を取り入れる時、本当にありがたみが感じます。

閑話休題。

日射による一日あたりの総熱量を終日日射量といいます。

季節によってこの量は変化しますが、夏場の南面は太陽光線の角度が高いた

め、日射量は東・西面より減少するのです。

もっとも、一番多いのは水平面照度。すなわち天井面ですね。

屋根の断熱が大切という事です。

まっさんでした。


  


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2009年12月19日

歳末大検査 顛末




じゅんじゅんです


大腸内視鏡検査 終わりました。 胸のエコー(超音波検査)とマンモグラ

フィー 終わりました。

そこで、いったいどんなものか、少しお話いたしましょう。

内視鏡検査は、検査日の前日夜から始まると言っても過言ではないでしょ

う。

夜8時までに夕食。夜9時に下剤を溶かした水を200ミリリットル程飲み、

さらにただの水を200ミリリットル飲みます。ここでお通じがあります。

当日、検査時刻の4時間前に、経口腸内洗浄液をつくります。

まず、粉の入った袋に1Lの水をいれて粉を溶かし、さらに1Lの水を入れ、

この2Lの水のうちの1Lを、まず1時間で飲みます。

たいがいお通じがありますが、なければ続けてもう1Lを飲みます。

すくなくとも1.5Lは飲みきります。そして飲み始めから4時間の間にすべて

の便を出しつくし、水しか出なくなったらOKです。

そこまでで、気分の悪くなった場合は医師に連絡し、リタイアするか、少し

休んでトライかを判断してもらいます。

元気な方は検査室へGO.私の場合、家から1.5時間かけて

電車で行きました。

検査はそのような経過で始まるので、当然押していて、私の検査は、

予定の時刻から30分経って始まりました。

まず、女性の看護師さんが来ます。

すぐ、「消化器内科のOOです」医師が来ます。伏せているわけではなく、

一度名乗られただけで覚えられるほど、頭がよくないのです。

医師が看護師に麻酔薬について指示します。

医師が採血の時のようなチューブのついた針を刺します。

左手の親指側の手首の血管に。痛そうでしょう?

針は検査の間刺したままです。

ここから麻酔を入れます。私はお尻に穴のあいた青い紙のパンツ、長けは

ひざ上くらい、をはいていて、まず左を向いて膝を直角にしています。

するとめまいがします。これが麻酔が効いてきている証しだそうです。

画面が見たいので、眼鏡をかけました。

「ゼリーを塗りますよ~」う~ん 自分で塗りたいと思うが、ダメなのか?

看護師さんは割りと何もしない。女性なのだから女性が塗ってもらいたい。

麻酔が効いているのだが、肛門の感覚だけは残っていて、あと腸をのばし

内視鏡を押しこむとき、下腹は生理痛のような痛み、胃のあたりは内視鏡

がやってきたのがわかる、コリコリするというか、そういうかたい痛み。

ずっと左をむいていればいいわけではなく、「今度はあおむけになって右足

を左ひざの上に」とか、「今度は右向いて出来るだけひざを抱えて」とか、

そうですね、右と左とあおむけを3往復ぐらいしたでしょうか。

なんかそのあいだ、お腹のあちこちが痛くなるし、肛門が熱くなってるよう

な感覚があるし、画面に移るピンクの腸は、なんか自分のものとは

思えないし。

結局全体の1/3は画面が見られなかった。見る限りポリープもなく、

健康な腸みたい。しかし検査終了の頃には「なんか頭がすっきりしてます」

「もう麻酔切れちゃったかな。あなたの腸は人より長くてくねってるから

大変でした。御苦労さま。一応中和剤入れておきます」またチューブから

注射する。この間、どうしても内視鏡が奥へ行かず、医師がバトンタッチ

したのだが、この医師にかわったとたん、胃のあたりに痛みが走り「痛い」

と何度も言ったが、気にされず、どんどん奥へぐいぐい突っ込んでいった。

内視鏡は大腸の場合、どんどん先へ進んで行き止まりまで行き、

引いてくるときにゆっくり見ながら写真を取るらしい。

組織は取らなかった。

たぶん問題ないと思うが、写真をもとにまた医師が診断を下す。

麻酔注入から中和剤注入まで1時間以上かかりました。そのあと20分の

強制休養。わたしはベッドに横になりました。

入院してれば爆睡できるのに。

そして二日後、今度は乳がんの検査です。

10時から超音波検査。女性の技師でした。

予約時間よりも20分おして始まりました。

ゼリーは「温めてあります」というのだが、ちめたい。

そうかと思うと熱いときもある。

いたくすぐったいが、20分くらいで終わる。

次は問題のマンモグラフィー。予約時間ぴったりに呼ばれる。女性の声。

ほっとする。いつもの担当医が、「検査の結果を持って外科の乳腺外来に

行ってください。外科の先生が触診しますからね。」と言った時、外科の

医師は男性だが、検査技師はどちらの検査もきっと女性なのだろうと

思っていたが、やっぱりそうだった。

マンモグラフィーは小部屋に入って、上半身裸になり、バスタオルで胸を

かくす(縦に使い、巻いては駄目)検査台の前で氏名と生年月日を名乗り

本人確認。

それから片方ずつおっぱいを台の上に乗せて上から板を載せてはさむ。

息を吸ってはいてはさむ。さらにしぼる。もう片方の胸は自分で

画像に影を写さないように、手で押さえて台から引き離す。

おっぱいの泣き別れである。

この挟む時、おっぱいを台に載せるのは理にかなっていると思うが、

その台が長方形で角が直角で、おっぱいのつけねの腕の部分、

脇の下は直角じゃないので、とても不自然なかたちになり、不自然なだ

け、おっぱいが絞られる時、脇の皮膚や、鎖骨下の胸の上の付け根ともい

うべきところの皮膚が痛む。

赤くなる。「しばらく赤いかもしれませんが、大丈夫です」本当か?

なんか、確実に胸が何ミリか垂れたんじゃないだろうか。。。

歯科のレントゲンも大昔は大変だった。しかし90年代からは360度回転

するレントゲンの機械で、楽チンに検査終了するではないか。

なぜマンモグラフィーはあんな形なのだ?あんなに胸を絞るのだ?

おっぱいの魚拓を作るみたいに、おっぱいを優しく包みつつ、そのままの

かたちで、撮れるようにすべきではないのか?

少なくとも、あの台の形はおかしいだろう。

人間の体は曲線でできているのに、一番柔らかく丸い女体の部分である

胸からわきを預ける形があれでは、乳房というものが、歯よりも大事にされ

ていない、検査技術の遅れた器官だという気がしてくる。

某都知事が 生殖機能の衰えたばばあは価値がないみたいなことを

言っていたが、形を変えた女性蔑視として、

「がんになったら命が大事だろう。乳房などいらないんだから、取って

しまえばいい」という考えがあったのだ。

しかし膵臓や、盲腸でさえ、最近の研究では、今まで解明されていな

かった人体に必要なある種のホルモンを出しているらしい。

まして乳房は、母性や女性性の象徴である。

いままで「母性」としてはいたずらに尊重されていたが、「女性性」と

して温存や再建が当たり前になったのはつい最近のことだ。

しかも、最初から乳房再建を念頭に入れて手術してくれる技術のある

ところは少ないし、それを求めるとき、女性の年齢や社会的地位に

よって、差別を受けるということが無いわけではない。

早期発見を医療費削減の観点からしかみていないから、

あんな機械のまま、進化もさせず、いたずらに啓もう活動に

予算をつぎ込んでいるのだろうが無駄だと思う。

女性技師で乳房に痛みを感じない検査でなければ受けたくなくて当然だ。

マンモグラフィーを受けて、昼過ぎに髪染に行き、そのあとでクイックネイル

に寄った。ネイリストの女性は、「私がうけたマンモの技師は、日焼けして

たくましいんだけど、話し方が、『ちょっといたいわよ~がんばってね』

みたいな、あきらかに真ん中の人って感じで、女の人でも恥ずかしいし、

もちろんおとこのひとじゃ嫌ですけど、これはありだな~雇った人GOOD

JOBと思いましたよ」と言っていた。

う~ん 私は 真ん中の人なら 外見も真ん中じゃないと マンモの技師

としては受け入れられないかも。。。

胸を絞って息を止めている間の時間は1~2分だが、両方合わせて正味3分

かもしれないが、(わきをあわせたり、むねをひっぱったりで10分は

かかるけど)もうやりたくない。

(あ、4枚とるから正味6分か。四回胸がつぶされるの。

上下からと横からのを左右それぞれ2枚撮るから)

マンモは50歳以上は二年に一度が奨励されているという。

これから二年の間に、新しいマンモグラフィーの機械をだれか発明して。

特許取ってお金持ちになって。

それでも私は発明者に感謝するし、そういう機械が出来てこそ、

医療費削減にもつながるのではないだろうか。




  


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2009年12月18日

祖父の格言シリーズ① 小学校就学前の幼児の才能について 後編



じゅんじゅんです


弟に甥っ子が生まれ、彼が3歳の時、母の長兄のうちに遊びに行くと、まだ

先に使っていた黒電話があった。それに甥っ子が興味を示すと、伯父は

甥っ子に黒電話を与え、少し勝手に遊ばせてから、数字を声に出しながら

ダイヤルをまわして教えた。

それまで甥っ子は、公園への道の敷き石を「いち、に、たん」とかぞえ、

3までくると、また、「いち、に、たん」というので、私は「すごいね。

公園までこんなに距離があって、敷き石がたった3枚とは」とからかって

いたのだが、あるひ「ひとつ、ふたちゅ、みっちゅ、よっちゅ、いちゅちゅ、

むっちゅ、ななちゅ、やっちゅ、ここのつ、とお」と数えながら歩いたので

驚愕したが、伯父が教えたのであった。遊ばせながら。

それでわたしは、あいうえお50音が書かれた平たい正方形の板が、びっしり

並んで囲いの中に入っている木のおもちゃを子供の日に送った。

囲いつきの入れ物になってる台木の底にも50音が順番にかかれているすぐれ

もので、50音の正方形の板の裏側には、あ なら アメ のように字と絵

がかかれている。

送って数日して行くと、「あいうえお しよう!」と寄ってきた。しめしめ。

甥っ子は伯父に、「それでもう、ひらがなくらい読めるのか?」と聞かれた時

「あいうえお」と答えて、「お、知っているな」といわれて嬉しかったらしい。

次に会った時は「たちつてと」まで覚えていた。

そのうち、ばらばらにしようと、裏返しにしようと、全部解ってしまうので

お互いに面白くなくなり、「あいうえお」では遊ばなくなった。

しかしある日、積み木で遊んでいる彼が、三軒の家を作って遊んでいて、

「ここはだれのうち?」と聞くと、「おじちゃんと、おにいちゃんのうち」と

伯父の家にいない家族(従弟は新潟かどこかに赴任していた)まで答えるの

でまたまた驚愕し、「じゅんじゅんのうちは?」と聞くと、

「これがじゅんじゅんち。これがじゅんじゅん。これがおじたん」

というので見ると、長方形の積木が家族の数を表しているらしい。

そうすると一階に3本、2階に二本あるのが、自分の家らしい。

「じゅんじゅんち、本当はおじいちゃんとおばあちゃんもいるの」というと

「もう、ちょうがないなあ。。。」と言って、伯父の家の柱を取った。

(なんと伯父の家の柱は二本ずつ重なっていて、四本あり、そのうちの二本

で私の家の家族を増やしたのだ)

みるとどの家の柱も一階は二重になっているのだ。

「どうして、ここ2本使ったの?」と伯母馬鹿のわたしは聞いてみた。

甥っ子が「まあちゃんが2階でたたかうから。下をじょうぶにちたの!」

と言ったので、喜んでいたら。

「そうだ!じゅんじゅん。たたかおう」と挑んでくるではないか。

わたしは首を振り。「じゅんじゅんはたたかわない」と答えた。

「なんでえ?」と甥っ子は不満そうだったが、「もう遊ばないなら、これを

片付けなさい」というと、三角や四角や丸や丸をくりぬいた四角の半分や

いろんな形の積み木を、あっという間にくみあわせて、ぴったり、箱に

しまった。よしよし。満足していると、母が、「じゃあ、おばあちゃんが、

たたかおう」と言いだしたので、ふたりは刀で闘いごっこを始めた。

遊びから遊びへ次から次へめまぐるしく変わっていく、その間も絶えず何か

しゃべっている。そういう3歳4歳の時期をすごし、5歳の彼はもう、少し

おとなしくなっていて、大人好みのケーキを出されると「これは僕の、苦手

な味だった」というようなこどもになっていた。

7歳9歳とどんどん寡黙になって行き、11歳の彼は、お勉強が良くできて、

GFまでできて、今まではいていたバスケットシューズが小さくなると、

絵に描いておく、それがまたよく描けていて、祖父が額に入れて飾って自慢

する、そういう少年になった。

母の友人は「ダルビッシュみたい!」という。3歳の頃は髪が真黒でつやつや、

ほっぺが赤くて目はまんまる。まっさんが「金太郎さんみたいだなあ」と

いうような子供だったが、いまはダルビッシュ。(ちなみに、この輪郭は

水島ヒロでは?という私の意見は却下されました。)

幼児の才能は、その容貌と同じだ。全く消えてなくなるわけではないが、

変わっていく。また変わって行くのがいいのだ。と私も思う。




  


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2009年12月17日

祖父の格言シリーズ① 小学校就学前の幼児の才能について 前篇



じゅんじゅんです。



先に「子供が何人いようと養子になど出すものではない」という祖父の

考えについてちょっとお話ししましたが、「骨髄移植」兄弟で適合率25%

などと言う話。また生体間移植の場合、親からが11年(年齢的問題)

配偶者間が12年(医学がいかに進歩しても所詮他人)に比べ兄弟間は

23.5年の生着期待値が見込める(あくまで平均)などというデータを

見ると(腎臓)、う~ん と唸ってしまいます。

祖父の遺品に 日露戦争記念 陸軍の杯 がありました。

陸軍兵学校で学んだ明治の人です。

陸軍はドイツ兵法に傾倒していて、やがてフランス兵法を取り入れますが、

「遺伝学」直流の知識でなくとも、なにか、その類の知識があったのかも

しれません。

祖父は子供より、妻を大事にするひとでした。

祖母はやまいもで手がかぶれる体質で、平素、家事など全くしない祖父が

やまいもだけは包丁で皮をむく、その姿を母は覚えているそうです。

また、第二次大戦後、祖母が47くらいで子宮がんを患った時、自分の遺産

相続分の山を全部売って、祖母に薬を買ったそうです。祖母は85まで

生きました。

その祖父が、よく、将来母親になるであろう、私の実家の母に、「私はこども

のころ。坊さんがあげる経はたいがい決まっているから、みな暗記していた。

坊さんが行けない山奥の村で法事などがあると、重宝がられて、お経をあげ

に行き、野菜や果物、いくばくかのお布施をもらって帰ったものだ。だが、

小学校へあがると、みんな忘れてしまった。学校の勉強で頭が占領されたの

か、役に立たないと判断した暗記した経の方で場所を明け渡したのか、それは

わからない。しかし、小学校入学前の子供の覚えが好かろうと悪かろうと、

その道の才能がある、などと早合点しないことだ。頭がからっぽだから、自然、

一度にたくさん覚えているにすぎない。すぐに忘れる。」

私が2歳ぐらいの時、企業のマークと言うマーク(社章というのかな)を覚え、

車やビルを見るたびに「みちゅびしよ」「しゅみともよ」「にぽんこうかんよ」

と言っていても、「良く知ってるわねえ」と驚きはしても、またまんざら

馬鹿ではないと母は思ったらしいが、「その才能を生かしてなにか英才教育」

などとは、祖父の言葉を思い出して、考えなかったそうだ。

まして、小物という小物を、母が取っておいた包装紙でぴしっと、預かった

お使い物のつつみと信じて疑わないほど包装してしまった時も、それが才能で

それを生かして将来の職業に、などとは微塵も思わなかったに違いない。

だから、多少の記憶力と、ある種のしつこさとして、その時の性質は残って

いるが、知識として残っているわけではないし、職業など持っていない。

私の従弟が4歳くらいの時、ひらがなを覚えることに夢中になり、母親が

家事をするのに追いかけまわして、一字一字しつこく尋ねるので、叔母は、

「まだ早いでしょ。」と閉口していた。(私の9歳の夏休みのことだ。)

しかし従弟はあきらめない。また、彼はおしえられた字を書こうとするのだ

が、細い鉛筆に彼の小さい手がマッチせず、どうしてもうまく書けないので、

そのたびに、癇癪を起して、鉛筆を放り投げる。と、芯が折れてしまう。

それでもまだ書きたいので「鉛筆を削って」と母親にお願いするのだが、

とりあってくれない。

彼はとうとう、私の母に「おばちゃん。鉛筆削って。」と寄ってきた。

母はそこで、「あなたが鉛筆を投げるから、ほら、みてごらん。いくら削っ

ても芯が折れてるでしょ。鉛筆は字を書くものなの。投げちゃだめなのよ。」

と教えた。彼は二度と鉛筆を投げなかった。

うまく書けないと、彼は、「おにいたんの、な」「クリスマスの、さ」とか、

でたらめなのか彼なりの規則性があるのかわからないが、そう大声でとなえ、

ゆっくり字を書くようになった。

そしてひと夏で50音を全部書けるように成ったらしい。

従弟はその時、握り箸であったのだが、私や弟と自分の握り方が違うと解る

と、それもひと夏のうちに、なおしてしまった。

ひと夏いて私たちから学んだのはいいことばかりではない。

私は玉子にマヨネーズをかけて食べていた。それを見た彼はさっそく真似た。

以来、それまで塩で食べていた玉子を「じゅんじゅん姉ちゃんは、こういう

食べ方じゃなかった!」と言って、マヨネーズつけないと食べなくなった

らしい。叔母は、「まったく、うるさいんよ」と閉口していた。

彼がいまだにゆで卵にマヨネーズをかけて食べているかは知る由もない。

しかしかれが4歳の時に覚えた50音を忘れたことなどあるはずもない。

幼稚園の時から、文章が書けて、幼稚園時代から秀才と言われていた。

叔母は「田舎に転勤になって、幼稚園も小学校もひとクラスの人数が少な

かったんよ。それがよかったのかもしれんねえ。」と言うだけだ。

しかし彼がしつこく50音を覚えようとしたのは、何か目的があったから

ではなく、叔母がいつも勉強していたからなのだ。

それは田舎の生活に必要なバイクの免許を取る試験勉強だったり、車の免許

を取る試験勉強だったかもしれないが、叔母はいつも一発合格であったらしい

から、かなり真剣に(家事の合間に)勉強する姿を彼は見ていたのだろう。

そして真似をしていたのだ。お勉強の。

彼は現在、博士号を持ち、専門分野でばりばり働いている。

しかし従弟の大学院時代、「よっぽど勉強が好きなのねと、みんな言ってる

わよ。」と私が言うと、「勉強の好きなやつなんて、いるはずがない。」と

笑っていた。

しかし彼は台風が来るとうきうきと同級生と電話で、「来るね!絶対来るよ。

うん。」とか話していて、一足先に社会人になった妹に「ね、うざいでしょう」

と言われるような大学生だった。

4歳の時と、うざさは変わらないんだ、と妙におかしかった。


  


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2009年12月16日

 「思考の整理学」をまた読み始めました


じゅんじゅんです。



とある病院で、「待ち時間、あとどれくらいですか?」と聞くと、答えは

「ちょうど一時間ですね」

60まで60回数えるか。。。「待てよ。中に文庫本が突っ込んであったな、

このバッグ」何を入れてあったかとごそごそ。ありました!

O?か月遅れのベストセラーの読書。恥ずかしいところだが、こんなことも

あろうかと?カラー表紙をはずしておいたので、むきだしの文庫本、

いい感じだ。

これなら人前で読むのに恥ずかしくない。(いろいろ、めんどくさい奴だと

お思いでしょうが。。。)

カラー表紙は付けておく主義ですし、もう読まないなと思った本は、ブック

・オフに売ろうとクローゼットに積んである(年越しそう)

しかし何度も読んでる「森茉莉本」やこの本の場合、けして売らないし汚れ

ても捨てないので、読むのに無駄な装飾は取っ払っておいたのだ。

本屋では必ず「カバーおつけしますか?」と聞かれる。

売る時、汚れていると値が下がるので、すべてカバーをつけてもらう。

するとどうだろう?積んでるうちに、文庫本だか漫画本だか読んだか読んで

ないのか、解らなくなるではないか。

この年まで、気付いていないというのは、いかに、買ってきたらすぐ読んで、

カバーを取って本棚に並べていたか、ということである。

そう。若い時って、案外頭がいいもので、後で捨てたくなるような本って

余り買わない。懐の具合もあるので、自然に吟味しているのでもあろうか。

ところが専業主婦になり、外出日とそうでない日と、懐の温かい時とそうで

ない時、いろいろと違うので、いざ本屋に行って買おうという時、切りぬき

までして買おうと思っていた本の情報が手元にない。本の題名を覚えていて

本屋中を探して歩いていると、おもしろそうな本が次々目に着く。4~5冊

手にしたところで、だいたい金額オーバーである。

実家の母は、学用品ならなんでも上等のを買ってくれたし、学習雑誌も毎月

取ってくれたが、よく聞く、「本屋に行って、好きな本を好きなだけ、つけ

で買って読んだ」という体験はさせてくれなかった。

父はお金持ちでも学者でもない。「育児」にさえあまり関心のない昭和の父

親である。(そういう経験をさせてもらえたのは、石原慎太郎とか仁丹の社長

令嬢などである)

母が本屋に連れて行ってくれたのは、今思えば、ボーナスが出た後、という

時期だ。私は6月生まれなので、誕生祝いに本屋に行き、3冊まで、とか、

レコード屋に行き、好きなレコードを、とかいうように買ってもらっていた。

だから、本はハードカバー(だって文庫本ならお小遣いで買える)レコード

はLP派だ。

年に二回、本屋で5冊、レコード屋でLPを一枚。

あるときなど、母の機嫌が良かったのか、景気が良かったのか、デパートの

レコード売り場でジュリーのシングル3~4枚に野口五郎のLPを買って

もらった。今でも実家の、県立高校合格祝いのステレオのレコード入れに

鎮座していることであろう。

だから、選別眼はあるはずなのだが、年を取って頭がぼけたか、年に二回

でなく、月に2回もまとめ買いをするだけの選別眼は育たなかったか、どう

も、はずれが増えているのである。

「思考の整理学」が「積読」ならぬバックの底で眠っていたのは、けして、

内容が面白くなかったわけではない。

むしろ面白すぎ、「先へ読み進みたくない」という意識さえ出て、この一行

一行を大事に血肉にするのだ、という思いまで抱いた。

おおげさ?いや、こんな本は久々です。

初めは、「いかにも東大生が好みそうな文章だ」「頭のいい人の書いた文章に

してはあまり解り易くないな」と自分の頭の悪さ(というひとは、けして

自分の頭は悪くないと思っているのですよ)を棚に上げて、生意気にも批判

していたのであった。

ところが中盤まで読み進むと、内容が急に理解しやすくなった。

これはこの本の文法が頭に入ってきたからでもあろうか。精読してた甲斐が

あったなと嬉しく、106ページまで読んだところで、順番が回ってきました。

ファイルの仕方などの章を読んでは、「ああ私はこれほど几帳面じゃないし。

手書きじゃ手が痛い」と根を上げかけていたら、「つん読法」の話になり、

自慢じゃないがわたしゃこれだよ。

しかるに現在はご自慢の記憶力が衰えてきて「ショーペンハウエルを一晩で

平らげる」と言うほどの胆力はもともと無いが、部屋が机上が乱雑になる

ばかりで、「寝かせた」が最後「発酵」どころか、雪崩を起こすだけ、情け

ない次第である。

やっぱりこの本は、東大の教養課程、18~20くらいの年齢で読まなければ、

利用価値は半減するのだな、とも思う。

けれども「思考の整理」はだれにでも必要なものである。

物書きや学者でなくても。

「学」どころか、「思考の作法」さえ怪しい私だが、読んだだけもういちど、

脳みそが若くなり、元気になる気がする。脳の栄養になったのだろう。




  


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2009年12月15日

ちょっとあべちゃんとモックンの秋山兄弟の話から




じゅんじゅんです

君の話はちょっとが長すぎるとお怒りの皆さま、御機嫌よう。

今日も長くなりそうです。

あべちゃんとモックンの秋山兄弟の話を先日いたしましたが、「ちゃんと

兄弟に見える!」という私の感慨は、数年前の記者会見の違和感に発端が

ありまして。「え~阿部寛(ほ~らちゃんとフルネーム知ってる)とモックン

(元木雅弘、あ、知ってた。ちゃんと送り人も見たわよ。山崎努様が相変

わらず素敵だったわ)が兄弟?身長が違いすいるじゃん?!史実もそう?」

「しらん!」(相手にするといい加減耳と頭が疲れるので、自分が良く知っ

てること以外は、いきなり80翁になってこの調子のまっさんです)

実際の画面で明治の質素な生活でほとんど座ってるかかがんでるか馬に乗っ

てる兄さん阿部寛。ほとんど走ってるか、歩いてる時は子規役の東大出香川

照之が横にいるか、兄さんの前ではほとんど正座(ときどき板間どころか

地面に!!)のモックン。やっぱ苦労してない?NHK.

もっとも、この兄弟の上下関係をその身長差で形而上下はわからないが

(解らないなら書くな、学問が浅いどころかこの分野は全くないんだから)

表すというには、いい思い付きだ。そして美男同士は似るものだという真理

も手伝って、本当に兄弟に見える。

親御さんはお喜びでしょうと閉めたいが、実はこの兄さんは三男で弟は五男。

生まれた時から「坊主」として寺にやられる手はずだった「弟」を自分が

稼ぐようになるからと、助けたという逸話が示す通り、次男と四男は養子に

出されている。(親父さん、選んだのかも。)

とにかくこの時代、士官学校に師範学校に大学予備門と、気力・体力・知力

・胆力・(資力)がなければどこも卒業できないとこばかり。

東大文学部などは卒業生がふたりしかいないので、式を待たず一足先に故郷

に帰る方が、もうひとりに、「キミ ニバンニテ ソツギョウス」と電報を

打ってくれるように頼んだという逸話があるような時代だったのだ。

京都では今でも京大の学生だけを「学生さん」というそうな。

官僚が「君は第何期卒業かね」と聞くようなものだ。知らないけど。

官僚の世界が京都の街より狭いという感じには聞こえますわな。

とにかく、自主自立の精神の権化秋山兄弟は、「このままでは二流の学者に

なる」という弟の危機感を受け入れて、弟は海軍兵学校へ転身するのね。

でも大学予備門時代すでに、「山を当てる天才」で、「問題を作る方の気持ち

になって考えればある程度分かる。あとはカンだ。」と言って、「戦略家じゃ

のう!」と言われている場面もあった。

そういうところが「二流の学問・二流の根気、器用なところがある」という

卑下につながるところが、やっぱり秋山兄弟・弟、只者ではない。

陸軍も海軍も、基本、衣食学がただ。好古が旗本屋敷の馬てい小屋みたいな

ところに下宿してるのはなぜ?寮費をけちったとか?

給料が出るし馬は学校から支給だけど、弟の学費のためにぼろ小屋にいたの

かな?そうでもないみたい。なにせ弟が来ても茶碗が一つなのだ。

阿部ちゃん好古は酒しか飲んでないが?身辺は簡略、単純明快にしておくこ

と。でもテレビのあべちゃんは、松たか子扮する元旗本のお姫様(おひい

さまと読んでね)に「狆も馬でお帰りか?!」とちょっかい出すことも

忘れてない。ちょっと業平と高子姫を思い出したが、好古とタミの年齢差っ

てどのくらい?

「も」ってところが深いな、と。「元旗本のお姫様」と「騎馬士官」の自分

は対等か、少なくとも劣っていないという、強烈な自負心を持っているぞ。

「男って結局お嬢様がすきなのよね」「バブル期に逆玉が顕著になっただけ

で、昔から血統は娘で、優秀な遺伝子は婿からって言う思想はあったのよ」

「バブル期は才覚でいくらでも稼げたから、後ないものは結局身分と教養

なのよ」「だから東京家つき娘か」(賢明な読者諸君はもうおわかりですね。

ここのところ、じゅんじゅん、心の会話)

明治期はいわば立身出世バブル期ですから、出世した好古とタミの間には

縁談が持ち上がります。第2話で好古はいやいや元藩主の殿様のお伴で

仏蘭西陸軍に留学しますが、たちまち官費留学に切りかわり、エリートとし

て帰国しますから(留学前からエリートだけど)、殿様のお伴をしてくれと

頭を下げた元藩主の家令(宝田明だし)あたりの斡旋かも。

ところでこのお殿様、どうしてフランス陸軍になんか留学するの?

まっさんに聞いたら、「何を解りきったことを聞く。そこしか受からなかった

んだろうよ。」と簡潔なお答えでした。

でも、このあんまり出来が良くない?殿様。好古には運をもたらしてくれた

んじゃない?エリートの一人から、唯一フランス式馬術を身に付けたエリー

ト中のエリートになれたんだもの。

好古は美男で、だけど「そんなことが何の役に立つか」という態度は生涯

変わらなかったそうだ。く~!だれが演じられますこういう役、あべちゃん

以外に。NHKはつかこうへい氏にお歳暮送っておきなさいね。

でもNHKもわかってる。三男信三郎(好古。お武家さまだから、お徒歩組

でも幼名と元服名、ふたつ名前なのね。)役の子役、美少女的美少年を配役

していたわ。

可愛い顔と可愛い声で、両手をこう、お豆腐を持つ形にして、「いまに豆腐

ほどの金を作ります」と言われたら、ただでさえかわいい赤ん坊、坊主に

出す気も失せますわな。生まれたそうそう寺にやらなくても、もうちょっと

様子を見て、出来の悪いのから養子に出しても遅くはない、とあの親父さん

なら考えるかも。

母の兄弟では母のすぐ下の弟が四男で、特別出来がいいというので養子の

口がかかったそうだが、祖父は、「子供が何人いても養子にやるべきでは

ない」という信念の持ち主だった。そのおかげで?母の長兄は「こどもは4人

まで」と力説してくれたものだが。(おじさん心配しなくても3人すら産む

気ない)と思って聞いていたが。

森鴎外も産児制限したという話、前にもしましたね。

なぜここで森鴎外かと言うと。鴎外は軍医総監になったが、好古は教育総監

にまでなった人物と言うことで、鴎外並みの偉人だということを言いたいの。

第2話では、子規の妹、律の嫁入りと離縁の話も挿入されていた。

今なら似あいの年頃の律と淳五郎真之だが、当時はとうがたった娘と、

大学予備門生。縁談になりません。

明治期には、同級生婚なんてないのね。エリートには。

まして×一だし、このあと真之と結婚すればいいじゃん、という現代の考え

も通用しない。

20だろうと25だろうと、未婚なら一生不犯、後家なら一生後家、離縁に

なった娘(出戻りと言うのね)は一生部屋住み以下の家長の扶養家族ね。

「野菊の墓」は一つ年上の従姉と言う理由で引き離されたということになっ

ているけど、もともと同じ年ごろの娘を嫁に貰うという思想がないのね。

男性が学校へ行った場合、その学問してる間、婚約はできるけど、結婚は

出来ないのね。だから当然5年学問するなら5つ以上8年学問するなら10

くらいは年下の娘でないと。

農家の分家っていう問題もあったしね。野菊の墓は。

学問を途中でやめて従姉と結婚するっていうことは分家するっていうことだ

けど、中学や一高や帝大を出れば、国家から給料が出るような仕事につける

から、分家の必要もない。

兄嫁さんとしては、学校出てもらう方がいいわよね。

働いた分、自分の子供のものにすべてなるか、義理の弟に取られるかの

瀬戸際だもの。だから母親も、息子も姪もかわいくても、結婚させなかった。

律の縁も「従兄」ということだった。こちらは夫とは別居して、夫の両親と

住み世話をする。というものだった。まっさんは「家の財産を守るための

結婚だよ」と言っていた。

漱石の「こころ」でも、東京で学問をしてる間に実家の農家が叔父の差配に

なってしまい、叔父の娘と結婚させられそうになっている話があったと思う。

貧しければ貧しいなりに、学費に困らなければ困らないなりに、やはりいろ

いろと苦悩はあったのである。







  


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2009年12月14日

ツイッター ちょと私にはむかないって編


じゅんじゅんです

昔、京都のひなびた資料館の狭い壁の一面に、「日本人はみんな、紫式部の

子孫」というテーマの系図がかかっていて、ある天皇から紫式部までの系図

と紫式部から彼女の娘やらそのあとの子孫から枝分かれして行く系図で

あったのだが、その時の私の関心は「紫式部」も「清少納言」も「右大将

道綱(有名な藤原道長の異母兄)の母」も「孝すえ娘」もみいんな6親等

以内の親族・姻族なのだということだった。

まあ殿上人と呼ばれる3位以上の公卿が、すべて親子従弟はとこ従弟半で

占められていた時期もあったくらいだし、天皇の妃がすべて、天皇の従姉妹

であるばかりでなく、その妃同士も従姉妹同士などということもあった平安

朝400年。滅びるはずだよ。

しかし、源頼朝も、天皇の何代か後の子孫であるから、なんにも変っちゃ

いなかったのだ。明治維新はどの天皇の何代あとの子孫か解らなくなった人

達の支配体制を、同じように解らなくなっちゃった人たちが崩したに過ぎな

いから革命でも何でもないわね。個人的見解ですけど。

革命と言えないから「維新」と言うのだと、どこかで読みました。

それは「坂の上の雲」を視て(まっさんは50代なので小説もちゃんと読ん

だあとだが、私は読まずにテレビを見るのね。あべちゃんとモックンが兄弟

として見つめあってる図、「う、うつくしい!」わたしが、「ちゃんと兄弟に

見えるね。」というと。「おう!なんか似てるなこのふたり」とまっさんも

賛成した)も、正岡子規が、「太政大臣」になって帰ると言って故郷を出る

ところにも顕著に表れてると思ったな。

テレビでは「やるからには、その分野で日本一になってやる!」それが明治

の(もちろん就学の機会に恵まれた幸運な健康な若い男性のみ)若者の気概

だとか言うようなことを言っていた。

子規もそのひとりだと。

しかしやっぱり、「書かねばいられぬ性」でしょうよ。

秋山兄弟の弟、モックン、真之(さねゆき)が、兄、あべちゃん、好古に

言っていた。「わしはこのままでは、二流の学者になりますけん。わしの

学問は二流。根気も二流ですけん。」「根気も二流か!」「わしはどうも、

器用なところがありますけん。。。」

器、器用のどこがいけないの?二流の味は蜜の味よ。三流でも五流でも大学

は大学よ。なんて、通じないんだろうなあ。

モックン真之は海軍兵学校へ行くのだが、大学予備門を中退して行くのだ。

今なら、河合塾二年目にして東大文一志望から防衛大学に行くような??

まったく比較すべきものが無くてわからないが、若くて健康な若者なら、

大学予備門の学問三昧な生活では体を壊すか力を持て余すという見本が、

ちょうど子規と真之なのだなと。なにせ東京都内から江ノ島まで、品川だか

横須賀だかの遊郭を抜けて徒歩で行くのだ。何しに?「海が見たいの」

いいえ、野郎ばかりで飲まず食わず(これを無銭旅行って言うのね。芥川も

似た様なことしてたわ。子規組かと思ったが。もっとも子規も参加してるわ)

何が楽しいんだ?海を見て吠えるのだ。

まあ女同士、高校の頃、湘南の海まで行ったことありますよ晩秋に。失恋?

そうでもなかったな。

真之とちがって私達は不器用だったし、吠える代わりに海に石を投げたり

した。海のそばに住んでいる人には解らないかもしれないが、人間、海を

見に行かずにはいられないときがあるものなのだ。

そして、明治の東京大学予備門生だろうと、昭和の川崎の高校生だろうと、

行先は湘南・江ノ島しかありえない。

ツイッターからずいぶん脱線してしまったが、私には、向かないなという

ことがわかりましたわ。骨の髄まで。




  


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2009年12月13日

ツイッター 自由と制限編


じゅんじゅんです


友人がよく言うことには、

メールって、平安時代の「文」みたいだなあって。

返信が遅いのはヤボとか無駄に長いのはダメとかさあ。

私の返事は、

ああ 後朝の文 とか?返事が遅いと誠意が無いとか、

包む和紙がどうとか、早けりゃいいってもんじゃなく

駄文はダメとか、和歌がうまくなけりゃダメとか、やたら

和歌なんか返さずに一枝折って寄こすのがしゃれてるとか、

やたらセンスを問われる、あれね。

友人

「そうだよ。センスが必要なの。なんか平安時代みたいだなあって。

日本人って変わってないんじゃないかって。

メールの文章だけ、やたらうまいやつ、いるでしょ。」

私、

ああ いるいる。でも業平が「あいつは和歌ばかりで漢詩の才能がない」

って二流扱いされてたみたいに、メールだけうまくてばかにされてるよう

なのね。

話してる時は楽しいし、会話は弾んでいるようだが、こうして書いてみると、

友人の感慨と分析は社会学的見地にあるようなのだが、

私は会話を文学的領域に引っ張ろうとしてるよね。

だからこの先に話が進まないのだなあ。

友人が「平安時代みたい」を繰り返すので、話は大塚ひかりの

「源氏の男はみんな最低(サイテーだったっけ?そんなニュアンス)」の話

に移って行った。

変わってないのか、進化したのか、良くわからない日本人であるが、

私は、今、流行っているという「ツイッター」は「2ちゃんねる」の進化形という気がしている。

2ちゃんねるも、初期には、「半年ロムってから書き込め!」という、

「技は盗め」式の職人気質と言うか、スパルタ式というか、

そういう教育があったものだが、玉石混合からやがて

有象無象の住家になってしまった。

もちろん常識的範囲で穏やかな「ここは荒れないし、皆さん大人ですね」な

スレッドもあるにはあるのだが。

「140字以内」というツイッターの制限は、後朝の文は和歌で、という

お約束のように、熱意と誠意と実意を必要とする。

「自由服」の制服の高校で「標準服」と呼ばれていた「制服」をいい加減

に崩して着ていた私が、吉屋信子さまが美しく描写されるところの正統的

美少女のセーラー服姿に憧れるように、「制限」というものは、「自由」より

も、確かな才能やセンスが問われるところなのである。あ、和歌とからめて

意味がつながったかな。

社会学見地から話を進めて行きたかった友人の深層が、

私のこの文章を見て(って変な日本語だがブログだからなあ。

読んで、というより見てという感じになる気がするのよね)

紫式部が清少納言を「学問が浅いくせに、書き散らしちゃってさ」

と批判したように、鼻白んでいる気がする。被害妄想?

まあいいのさ。在原業平だって、同時代人から馬鹿にされてたのさ。

おお 大きく出たね。業平は、身分の割に出世できなかったうっぷんから、

30にして16位の高子姫に手を出したとか、和歌に逃げた(当時の学問や

政治的文書はすべて漢文・漢詩)とかいう解釈もあるらしいが、やっぱり

「詠まずにいられぬ業」でしょう。

紫式部も「お前が男なら」と父親に言われたと「私の漢詩の知識は本物」を

匂わせつつ、「紫式部日記」では女房たちの衣装の色彩意匠などなど細かく

「六条院の衣配り」なんか目じゃないほどの描写をこれでもかと出来る才が

あるのに、そこはぐっと抑えて、衣装について書くときでさえ、いやこそ、

人物の深層心理や周りの人間の心理まで書きわける道具として使うだけで、

物語の重心をぶれさせないという、力量を持っていたが、それでもやっぱり、

「物語を書かねばいられない性(さが)」なのだろう。




  


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2009年12月12日

ICプレゼンテーション試験 製図の試験のこつについて


まっさんです。

午前中、論文試験の心構えについて私なりの心構えをまとめました。

午後は製図試験についての心構えについてまとめます。

製図の試験は140分あります。短いような長いような中途半端な時間ですね。

もっとも、私が受験した昨年度の試験では、バースの作図と着彩に時間一杯

かかったので、まずは冷や汗たらたらもんの体験を致しました。

これは嘘や大袈裟でいっている訳ではありません。

では、始めましょう。まず、問題が配ばれたら、全体をまず見渡しましょう。

どういった図面が要求されているのか、じっくり見て下さい。

昨年は、平面図、一消点バース(着彩)、家具の断面図、内装材の選択表の

記入でした。IC試験の設計では、要求される構成要素がたくさんあります。

ですから、まずはじっくり問題をみながら、必要な部材にナンバーを付けて

書き忘れがないようにしましょう。ここまでに10分を費やして良いのです。

試験会場は極度の緊張感が蔓延しています。雰囲気に飲まれてはいけませ

ん。

問題用紙の横にスペースがあります。解答用紙にすぐ図面を描くのではなく、

そのスペースを使って、エスキスを書くのです。エスキスとは、図面の下書

きの事です。しかし、平面図の縮尺は間違わないで書いて下さい。

その際、早くエスキスに平面図の外枠と内枠を引く方法ですが、問題文に

ある図面を下書きにしてなぞるのです。サイズを測って引いて書くよりよっ

ぽど早く書けますよ。

エスキスには要求された部材の番号とサイズ(三角スケールの縮尺にあわせ

た線)を記入します。このサイズを引く作業は手を抜かない方がいいですよ。

試験用紙に書く時、サイズが異なっていたら、プレゼンテーション試験では

減点対象となる場合があります。

この説明は長くなってしまいましたが、30分位で仕上げましょう。

問題の通読から約40分位を説明しました。

そして、いよいよ試験用紙に作図を始めます。

昨年の場合4図ありましたから、平面図から仕上げていくのが無難でしょう。

エスキスの図面を参考にしながら、作図していきます。

くれぐれも問題の中にかかれている要求部材の取りこぼしがないようにし

てください。平面図の作製が終わったら、次は簡単なものから仕上げていき

ましょう。

今年は、アイソメ図が出るような予感がします。何故なら、着彩をするのに

向いた図面だからです。でもこの図面作製は時間がかかります。

家具の断面図か、構成部材の種類を記入していく問題からどんどん解いて

いきましょう。

作図に約80分かけます。

そして、着彩です。10分で仕上げましょう。

そして、あと10分が見直しです。

後で必ず忘れていた部材が見つかったり、縮尺が違っていたなどというミス

もあります。

実は私も、見直しで、縮尺のミスを見つけました。あせって直しました。

兎に角、問題を全部書きあげる事が大切です。歯を食いしばって頑張りまし

ょう。

なお、トイレは行けますが、そんな時間はありませんよ。



  


Posted by massan&junjun at 15:29Comments(4)