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2009年10月31日

ダイニングと水回りの考え方について


まっさんです。

ダイニングは、キッチンと密接な関係がある空間です。

しかし、これほど配置計画が多様なのも驚きです。

まず、キッチンとダイニングが密接に配置される場合とはどういう場合でし

ょうか。

昔、公団住宅のキッチンとダイニングの配置は、空間的に一緒のタイプにな

っていました。

つまり食事を作って、そのすぐ横にダイニングテーブルがあるわけですから、

非常に効率的ですね。

こういうタイプの事を、「オープンタイプ」といいます。

また、空間的には、同じようなタイプで、キャビネットやハッチ付きの間仕

切り家具でキッチンとダイニングを分割するタイプがあります。

これがセミオープンタイプといいます。

このセミオープンタイプの中で、家具をダイネットカウンターに変えたもの

が「対面式」といわれるものです。

この対面式といわれるものはモーニングカウンターともいわれ、キッチンか

ら直接配膳でき、簡単な食事がとれるようになっています。

セミオープンタイプを採用する場合はキッチンで作業する人とダイニング

にすわっている人との目線がどうしても違ってしまいますから、アイレベル

を調節させる工夫が必要です。

例えば、カウンターを高くしてハイスツールに腰かけるようにします。

次に、水回りです。

水回りは普通キッチン、ダイニング空間、ユーティリティ、サニタリーと関

連しています。

ユーティリティはキッチン空間と関連させる場合は、サービスヤードを設置

する事をお勧めします。

キッチンから出たごみを処理したり物干しに干したりいろいろな作業をこ

の場所で行うことが可能です。

動線を整理する事によって、家事の負担を軽減させる事は重要ですよね。

また、サニタリーは、なくてはならない設備ですから、そこに付加するもの

は、設備の交換のしやすさやゆとりを感じ取れる事が大事です。

まっさんでした。


  


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2009年10月30日

社会保険事務所


じゅんじゅんです

社会保険事務所に用事があって電話をした。しかし電話番号が一つしか書い

てない。すべての問い合わせとクレームにこれ一本で対応? 民間なら

ありえませんから。オペレーターとかいないのね。だから窓口が年中混む

のだ。近所の郵便局のATMみたいに。お年寄りがふたり並んでいたら、

あきらめて家に帰った方がいいって感じだが、あの調子でずらっと窓口に

並んでるわけ?

そうみたい。窓口だけじゃなく、電話も混んでて、やっとつながったと

思ったら、「係りの者が他の応対中で、折り返し後でかけます」だと。

「それって今日ってことですか?」「明日に回るかも。。。」「明日は家にいま

せん」「じゃあ後ほどかけます」「OOの要件で、必要な書類を知りたいんで

す」「係りの者が説明します」はあ~何時にかかってくるんだ?

サービス残業ですか。もうすぐ5時半ですが。

マニュアル作っておけよ。電話応対なんて中学生にもできる仕事だよ~。

書類はOOへいってOOとXXを二通づつ、一枚はコピーで可です。

印鑑を忘れずに。申請の条件はOXが揃っていることで云々と、印刷物を

読みあげれば済むことでしょ。だいたい区役所に置いとけよ説明書。

「これは社会保険ですから保険事務所に行ってください」「必要な書類は?」

「社会保険事務所に行かないとわかりません」って、ピストンさせたいのか。

だいたい国民年金関係の手続きなら区役所で済むのに、なんで社会保険事務

所だけ別口なんだ。独立させてるんだ。

わからん。わからん仕組みだから勝手に事業やったり、年金記録紛失したり

したんでしょ。

社会保険事務所ってメアドもないの?問い合わせに位、メールで答えても

いいんでないの。ホームページとかないの?

いまどきそんな流行らない病院みたいな経営方針でつぶれないの?

ああ、親方日の丸でしたっけ。

公的年金機関を民営化はできないってか?区ごとに担当事務所を割り振って

あるけど、そんなのなくして、競争させたらどうでしょう。

相談件数と処理件数で給料査定したらどうよ。

もちろん、びりの事務所は責任者くび。

最高裁判所判事の任免より、ずっと身近で、判断のし甲斐があると思う。

もちろん終身雇用制なんてやめて、消費者生活相談員みたいに半年ごとに

テストして雇用を決めるの。

一時間たつけどかかってきませんけど。明日に回したのか?

あと30分したらまたかけてみよう。本日の業務は終わりましたになってるか

どうか確かめなきゃ。

とにかく役所って、申請しても、最低ひと月、ひどいと3カ月近くかかる。

ローンの引き落としか?!ローンの引き落としはカード一枚で手続き終了だ。

こ~んなに手間もかからなきゃ時間もかからない。

とにかく申請しておけば、忘れたころに処理が終わる。これが日本のお役所

仕事。

申請までにすでに疲れてるから、無意味な達成感でほっとするけど、まだ何

にも始まっちゃいなくて、元気を取り戻すと同時に数ヶ月間いらいらして

待つ。

これだから「金持ち父さん」は請求書は後回し、という哲学を持つのだ。

特に役所からの請求なんて督促通りこして最終勧告がくるまでほっとく

べきかもしれない。督促状も血税が使われると思えばこそさっさと払ってる

のに。仕事が遅いよ、公安委員会、お前もだぞ、と。

電話が来て喜んだら、外装工事会社だった。足場を払ったときに傷ができて

ると3度目の支払いをする前にクレームをつけたら、さっそく明日明るい

時間に視に来るそうだ。支払いを一度にしないのは建築関係の支払いの

鉄則らしい。民間会社は回収を済ませなきゃならないから迅速に行動する

なあ。社会保険事務所、取るときだけちゃっちゃっと取って、他の事務は

ノロノロしてるなあ。

まあ未曾有の不祥事のあとだから、処理に何年もかかるのだろうけど、

そもそも人出が足りないならどうにかすべきじゃないのか。

箱もの作って天下り先として重宝に使うだけじゃなく、事務が滞ってる所

に人員を補強したらどうよ。

きっかり一時間15分後に電話がきた。窓口はきょうは5時15分まで

だったらしい。

とにかく一度、年金手帳と印鑑をもって窓口に行き、必要書類をもらって

説明を受けなければならないらしい。

それからいろいろ書類を揃えて、もう一度申請に来いと。

ひとりひとり違うからだと。対応分類に100種類もあるっていうのか?

これで21世紀なのだ。がっかりだよっ!!

本当に疲れる。せめて窓口が駅前のビルとかにあればいいが、駅と駅の間の

バス停からも何百メートルも歩く死角にあるんだ社会保険事務所。

雨が降ったら行きたくないな。土曜日は第二土曜日だけ4時までやってる。

完全週休二日制でいいから、平日8時まで受け付けたらどうよ。

後日書類を取りに行ったが、対応は申請から4~5ヶ月後ですと(怒!!)


  


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2009年10月29日

果物と野菜のアレルギー

じゅんじゅんです

弟に用事があって電話したら、「おれ、野菜と果物のアレルギーになった。」

というんです。「ひのきと杉のアレルギーはわかってんだ。」

「私も杉とひのきはだめよ」「やっぱ同じ体質なんだな。今回はトマトだろ

うっていうんだよ。メロンも駄目みたい」「メロンなんか食べないもん。

舌がしびれるから嫌い。」「そう!舌がしびれて、口の中真っ赤になって腫れ

るんだよ。南瓜とかにんじんとか、後、葉物も駄目みたいだ。ホウレン草

とか。食べるものねえな。」

「果物と、緑黄色野菜のアレルギーなの?」「緑黄色野菜?きうりも駄目

なんだよ。バナナとか。」「バナナは食べられない。」

「同じだな。今、自分で、ひとくちづつ試してんだよ。同じアレルギーが

今度出ると死ぬからさ。二度目は反応が強く出るから。今は普通に話してる

けど三日前までへろへろよ。」

少年時代キャベツを馬のように食べていた(とんかつ一枚にキャベツ2/3こ)

弟がヤサイアレルギーか。「ナスも駄目」まあたいへん。

私は野菜嫌いで40過ぎてなすやらいんげんやらレンコンが好きになった

のに。やさいのてんぷらなんか最高だと思うのに。

まあ、お肉や魚、乳製品でお腹を一杯にしつつ、野菜を一口づつテストする

しかなさそうだ。

そういえば先週ニュースで、食物アレルギーの子供たちが、入院して、

症状を見ながら、アレルギーの食物(蕎麦とか卵とか)の食べる量を増やし

て行って、食べられる量を増やしていく、という治療法を特集していた。

番組に出てた子は牛乳のアレルギー。牛乳が飲めるようになって退院。

母親は「安心して学校に送り出せる」と。そう、学校給食に牛乳はつきもの。

しかし、カルシウムとかたんぱく質とか脂肪を、牛乳から取らなくても

ヨーグルトとかあと卵料理に豆乳を入れるとかして、補えないのかな。

牛乳ってアレルギー以外にも、お腹ごろごろとか、問題多い飲み物だし。

おコメ給食も増えてるのに、飲み物は永遠に牛乳か?

アレルギーじゃなくても、腎臓系の病気で牛乳を飲めない子供もいるのに。

私と弟が通っていた幼稚園では、お弁当持参だが保温器があり、飲み物も

牛乳・リンゴジュース・コーヒー牛乳・フルーツ牛乳から事前申し込みで

選べるようになっていた。自分でお茶をもってくる子もいた。

給食だからって、みんな一緒、みんな同じ、というやり方で押し通しては

いけないと思う。だれも好き好んでアレルギーになるわけではない。

幼児や小学生だけでなく、中年で発症する可能性もある食物アレルギー。

先生たちも特殊な子供の病気とか決めつけないで、対処法を勉強してもらい

たい。

「じゃ、元気で」「お大事に」と電話を切った。

まっさんは「おれ、実はOO(最近はフランスパン嫌いだとか突然言い出す。

外が固くて嫌いだ。はあ?外が固くて中が柔らかいから美味しいのに)嫌い

なんだ」とか言い出して驚かしてくれるが、基本、出されたものは何でも

食べるし、アレルギーもありません。妻としては楽です。ほんま。

あ、あったなひとつ、アレルギー反応。クインケ浮腫という原因不明の。

ストレスで発症するとか、のどに出来ると呼吸困難になるとかいう。

まっさんのは、ほっぺに出来たので、まだ笑い話ですんだ。

突然出るし、次は重症化するかもしれず、ちょっと怖い。


  


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2009年10月28日

ブルーチーズにバローロを


じゅんじゅんです。

20代の半ばから、私は正月が嫌いになった。

お年玉をもらえぬから?いいえ私は遅くまで学生をしていたし、30代の

前半、仕事もしないで祖母の介護と称して家にいたので、両親の妹達から

感謝や同情のお小遣いを受け取っていて、それはしばしばお年玉という形

であったので、理由は別のものだ。

 ひとつには、その期間の、テレビ番組のおもしろくなさだ。

年末年始の時代劇もいいが、「関ヶ原」や忠臣蔵(君怒りもて往生をとぐ)

など歴代の名作に比べ、どんどん劣化して行っている気がするし、紅白も、

芸能人かくし芸大会も、往年を知っているものとしては、非常に物足りない。

「見ずに年を越せるか」というような番組は一つもない。

ヴィスコンティの映画もいいが、昔はめったにみられぬから楽しみであったが

近年、年末年始の深夜はヴィスコンティでも流しときゃ文句ないだろ、みたい

な感じで流されるのではなはだ食傷している。

ドイツでクリスマスイルミネーッションを見て、ベニスで初日の出を拝む

こともできる現代に、家にいなければならないことがはなはだ不本意だ。

私の友人たちは(特に年末年始に群れたいような)父親が医者や社長や、

正月自宅にいるとなにかと忙しい(急患や年始客で)ひとたちで、だから年末

年始、30.31.1.2.3くらいは、地方の温泉などに行ってしまって自宅にいない

ので、初詣に行くのにさえ、相手に不足した。

彼女たちは彼女たちで、両親と一緒の正月に食傷し、年々行ってる期間が短く

なった。27にもなると、だいたい紅白に間に合うように新幹線で両親を追い

かけ(そのために両親の行き先が山梨や蔵王温泉になった)2日の朝には東京

に戻る。それから私とスキー旅行に出発するか、デパートの展覧会などをへめ

ぐり歩いたりした。

それでも大みそかや元旦は、家にいるしか選択がない。

ある年、いつものワンパターンな父親好みの白みその煮餅のお雑煮に飽き飽き

した私は、正月二日に母が作る、かつおだしに鶏肉・かまぼこ・小松菜の

お雑煮に、どうしても毬フを入れてもらいたくて、デパートの食品売り場で

探していたのだが、ふと、自分用のお菓子を買うことを思いつき、チョコレー

ト売り場に行ったのだ。

風月堂のノンアルコールの、丸玉とストライプ模様の四角いのがセットになっ

たチョコレートを箱買いし、ふとみると、新設なったワイン売り場(第一次

ワインブームともいうべき時期だった)の棚に、イタリアワインが、キャンテ

ィ、バローロ、バルバレスコの順に並んでいた。

手に取ると、ボトルの裏にお薦めの料理がかかれていた。

キャンティはパスタや魚料理、鳥肉など。バローロにはブルーチーズやステー

キ。バルバレスコには牛肉の煮込み料理など。

わたしはブルーチーズとふすまのクラッカーを買い、バローロを二本買った。

紅茶はリプトンのアールグレイの缶を買った。

これでお雑煮とおせち攻めの間、ひとりのおやつや夜食にことかかない。

 一人の時間をブルーチーズとバローロで倦めることを覚えると、退屈な

正月番組も、正月の番組編成も、苦でなくなった。

バローロは、きっと今では飲めないのではないかと思うほどコクがあって、

ブルーチーズの苦みに負けない味があった。

ふすまのクラッカーは軽いが歯ごたえがあり、頼りない私の身の上を励ますか

のようにいつまでも口の中で存在を主張した。

「さびしい女は太る」というが、しかし、心の慰めとしては、行きずりの情事

よりも、ブルーチーズにバローロの方が、上等ではないかとさえ思った。

わたしは正月休みにブルーチーズとバローロで、渋澤龍彦を読み、サガンを

読み、退屈に退屈することなく、自由と怠惰に惑溺して過ごせた。

過ぎ去ってみると、ああいう時間は、あのころにしか持てないものであった。

今の私は、キャンティでもステーキでも焼かなければ飲みたいとは思わない。

ましてバローロなど、この先、口にすることがあるかどうか。

チーズにはドクター・スットプがかかっているし、正月には箱根駅伝鑑賞の

為に、けして出かけないまっさんがいるのだ。

それでもいつか、一人の時間に倦む昼下がり、あるいは深夜に、ブルーチーズ

にバローロを、そういうこころに用意があると、年をとっていくのも、

怖くない気がするのだ。

年をとれば、ドクター・ストップも関係ない。

もしも年をとって一人きりになったら、ベニスのセントポール寺院の広場の

カフェで、ウオークマンで「タイタニック」のテーマを聞きながら、ブルー・

チーズにバローロを。身は電動車いすに預けていたとしても。


  


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2009年10月27日

年下の先生


じゅんじゅんです。

高校球児を可愛いと思うようになったらオバンになった証拠とか。

球児どころかお相撲さんもすべて年下となった今、大学病院に行くと、医師

はみんな年下である。特に外科は。

私は20年ほど前、塾の講師をしていた。生徒は7~8歳から中学三年生まで。

中学三年生のクラスともなると、終わると10時半くらい。

その塾は、駅前から少し住宅街に入ったところ。田舎道でもあり、駅までの

道は暗かった。それどころか、生徒がみんな帰ってしまうと、日誌をつける

間、人気のない建物(その塾は、塾長の家の一室を借りて経営するチェーン

方式なのだが、田舎のこととて、空き地の中の一軒家だったのだ)にひとり

きりになる。

大変怖いので、ある日、生徒の一人に「ちょと待ってて」というと、その子

は待っていただけでなく、自転車で駅まで並走してくれた。そしてそれは、

私がその塾をやめるまで続いた。

私は週に二日だけだが、彼はほかの曜日にも来ていて、他の先生に英語を

習っていたので、「国語か社会科でも教えようか」というと、「先生の一番

得意な科目は何?」と聞く。私が、「教えるなら、一番は英語かな」と答え
ると、「英語でいいよ」と言うのだ。

修学旅行に行く時、「宿題だそうか?」というと「かんべん!」と笑ってい

たが、お土産を買ってきた。沖田総氏の漫画イラストがかかれたステンレス

のマグカップだ。私が「あっちの先生にも、お土産買ってきたんでしょ。」

とお礼より先に言うと、「するどい!でも、同じものじゃないよ」というのだ。

う~ん。お勉強は正直いまいちだが(笑 人生のスキルは持ってるわね、と

なぜか感心したことを覚えている。

当時14~15歳だったので、今は35歳くらいだ。

どんな大人になっているだろうか。

なぜ、彼のことを思い出したかと言うと、大学病院の担当医が、ちょうど

35歳くらいなのだ。その先生の口調と言うか、声のトーンが、「どこかで

聞いたことがある感じ」なのだが、唐突に20年前会った少年を思い出させ

たのだ。

笑うと「脳みその明るい人」と言う感じのその先生は、職業柄、あの時の

親切で優しい少年とは全然違う冷たさや厳しさを感じさせる。

それでも、一対一で対峙している診察室にいると、あの教室で一対一で

お勉強を教えていたころを思い出すのだ。

そして、年齢と言い、知識と言い、圧倒的な存在の先生として少年に君臨し

た時間を過ごして、一点、彼に庇護される存在となって駅までの道を小走り

に急いだ夜を思い出す。

そして、今は、立場が圧倒的に逆転したような倒錯感を覚える。

「年下の先生」に厳しく指導されたり、冷たく突き放されたり、優しく励ま

されたりして、「この先生はずっと秀才だったのだろう。あの少年とは違う。」

と思い直すのだが、なぜか、あの「安心」だった夜道を思い出すのだ。

塾の最後の夜、教室では言わなかったことを、その少年には言った。

「事情で、塾に来るのは今日が最後なの。OO君、今までありがとう。

しっかりお勉強してね。」というと、少年はうなずいて、「さようなら。先生

元気でね。」と言って、自転車を立ちこぎして走り去って行った。

「年下の先生」に「今月で最後です」とか「じゃあ、今日が最後ですね」と

言われると絶句してしまう私は、あの少年のあの時の気持ちを知りたいと

思うのだ。

彼は私とは違うのだし、「人生、ケセラセラ」とか言っていた(笑 それでも

別れが唐突過ぎたと思うのだ。せめて学期の終了までは教えるべきだったと。

まあ「年下の先生」に「何かあったらいつでも来てくださいね」とか言われ

ても絶句するのだが。だってそうでしょう?具合が悪くなるから行くので

あって、会いに行くわけではないのだから。


  


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2009年10月26日

ザ・ピーナッツ


じゅんじゅんです

エド・サリバンショーにも出演した双子のデュオ、ザ・ピーナッツの全曲集

が一枚、我が家の車の六連奏CDの中に入っています。

他には聖子ちゃんのヒット曲集と綾小路きみまろ。。。

ザ・ピーナッツの歌唱の実力には定評のあるところですが、いかんせん

デビューが10代半ば。それでいて初代3人娘(美空ひばり御大たちね)が

ばりばりの現役。売り方にも苦労したらしく、全曲集の中には、はあ。。。

な曲も多いんです。彼女たちの歌唱力は凡曲にも屈するものではないのです

が、「可愛い花」とか「ウナセラディ東京」とか「情熱の砂漠」とかと同等の

クオリティーで押し通せたら、もっともっと歌謡界の女王として遇されていた

はずだと思うんです。

私は11歳から23歳までジュリーのファンでした。

お姉さんの日出子さんがジュリーの恋人で、週刊誌で恋人について聞かれて

妹の夕子さんが「職業くらいはいいんじゃない」とうながすと、「そうね。。。

音楽家です。」なんて答えてた。ジュリーも音楽家か。。。と私はそのページを

ずいぶん長いこと眺めていた。

新3人娘、中尾ミエ・伊藤ゆかり・園まりと一緒に、引退記念特番に出演した

ザ・ピーナッツは、まさに圧巻。

その時の歌声は、CD全曲集なんかじゃ再現できないくらいの迫力と情念と

なぜか透明感にあふれていた。

私は、彼女たちが、引退を喜んでいるように思えて仕方がなかった。

物心ついたころからずっと歌っていたこと。外国の歌謡祭に出れば賞を受ける

し、エド・サリバンショーの歌声は、最近ユーチューブなんかで彼女たちの

歌を聴いたというひとにも「うまい!うますぎる!」と感嘆せしむるほどで

あるのに。言わば天職であるところの歌を、捨ててしまえるなんて。

彼女たちの心情も事情も、一言では言えないものであったろう。

ザ・ピーナッツのCDは、毎年新装なって、発売されているらしい。

そしてその売り上げも、大した数字であるらしいのだ。

「モスラ」の歌も、耳に残っているが、彼女たちの魅力は、「別れをうたった

歌」にあると思う。

その情念。その諦観。それでいて大変寂しく、とても哀しい。

苦しい恋に悩む人の涙を誘い、まだ恋など知らなかった子供の私にも情感を

情景をうたい現わしてくれたものだ。

それにくらべると、ジュリーの「危険な二人」も「LOVE抱きしめたい」も

しょせん自分勝手な男の悲しみでしかないように聞こえる。

ザ・ピーナッツの歌声は、男を許しているが、自分を憐れんではいない。

それでいて、とてもさびしく、とてもかなしい。

今日のような雨の日に、車を運転しながら聴いていると、車のワイパーが、

私の涙を掻きわけていてくれてるような気がして、こころがさびしく痛いの

だが、もっと切なくとも、人は生きていけるのだと、彼女たちの歌は教えて

くれているような気がするのだ。





  


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2009年10月25日

リビングルームの計画

まっさんです。

リビングは家の中心的な役割を持った空間です。

ですから設計する際にその位置、広さ、使い方を十分に研究しておかなけれ

ばなりません。

では、リビングにはどういうタイプがあるのでしょうか。

基本的なタイプは三つあります。

一番目はゾーン型です。

リビングとダイニングが同一空間にあるタイプです。

この2つの単位空間を有効に活用するためには、家族間で十分にその役割、

仕切り方法、視線の調節などを話し合っておかなければいけません。

二番目は、ホール型です。

家の中の中心にリビングをおくタイプです。

部屋を移動する場合、必ずリビングを通らなければならないようになってい

ます。

家族間のコミュニケーションをとる場合に重点をおいています。

しかし、何となく落ち着き感が足りなさそうなタイプです。

三番目が独立型です。

リビングの役割が、接客中心のタイプです。

昔の家は独立型が中心でしたが、今はゾーン型が多いようです。

なお、リビングにおくソファーの配置方法についてですが、いくつかのタイ

プがあります。

1、 対向型配置 相対して商談する場合なのです。

   相手の目をじっくり見て自分の考えを言う場合に有効です。

2、 L字型配置 相手の顔を斜めに見ながら話しますから、リラックスして

   話すことが出来ます。

   コミュニケーションを図りたい場合に重視されるタイプです。

3、 コノ字型配置 多人数で話し合う場合に適しています。

   ただ、大人数を収容する広さも必要になってきますね。

4、 直列型配置 少し狭い部屋で。ソファーを一列に配置します。

   出来るだけ床面を有効活用したい場合に使います。

5、 分散型配置 暖炉などを中心に、壁際に個々のソファーを配置するタイ

   プです。

   ちょっとした広さが必要ですが、コミュニケーションが弾みそうですね。

私がもし家を建てる機会が仮にあったら、居間には暖炉を備え付け、バーボ

ンかブランデーを飲みながら、家族で今日あったいろいろ事などを話し合え

るそんな場所を作ってみたいものです。

まっさんでした。


  


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2009年10月24日

柱割と畳割


まっさんです。

今日はモジュールの考え方についてです。

昔から日本では家を建てる時の柱の長さを測るときの基準として二つの考

え方がありました。

一つ目は、碁盤目状のグリッドを書いておいて、その線の中心を基準にして

柱や壁をその厚さに合わせて書いていく方法です。

この書き方を「柱割」といって、「シングルグリッド心押さえ」ともいいま

す。

二つ目は、仮に四畳半を例にすると、畳の外側の面に合わせて線を引いてい

く方法です。

これを、「シングルグリッド面押さえ」といいます。

両者の考え方を簡単にまとめると。次のようになります。

「シングルグリッド心押さえ」は関東間ともいいます。

この方法は、設計手法としては比較的に簡単に間取り等を計画するのが簡単

なのですが、壁の厚み等の不確定要素があるので、構成材の規格化がしずら

くなります。

「シングルグリッド面押さえ」は、シングルグリッド心押さえで書いた線を

内側の線として描いていくので、中の家具を配置するときには失敗が少なく

なります。

この他に、あらかじめ壁やパネルの厚みを想定して壁の線を描いていく方法

を「ダブルグリッド」といいます。

別名「畳割り」といいます。

京都ではこの畳割りで設計される例が多くなっています。

そのまた別名が関西間ともいわれます。

この方法は、部屋の内法がモジュール寸法にのっているので、部屋を構成す

る材料の標準化がしやすくなるといったメリットがあります。

今日、紹介したモジュールの考え方をグリッドプランニングといいます。

グリッドの線は柱の位置を決める時などの基準となります。

つまり、この線が組み立て基準線といって実際に家を建てる場合の壁面にな

るのです。

以上を簡単にまとめます。

1、 組み立て基準線を描く。

2、 壁をはる。

3、 壁に囲まれた面にエレメントを配置する。ちなみにこの面は構成材基準

線ともいわれます。

まっさんでした。


  


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2009年10月23日

道長の四姉妹(後篇)


彰子が第一皇子を挙げた時、道長は「自分はこの中宮の父として悪くない

ではないか。中宮もこの父の子として悪くない、立派なものですぞ」と

有頂天であったという。彰子は道長の先兵として、大将軍にも匹敵する

勲功をあげたのだ。

次女の威子も、姉の夫である一条の年長の従兄(彼女にとっても従兄なの

だ。)三条天皇に入内した時、東宮時代からの妃がすでに4男を挙げていた。

彼女が偵子内親王を挙げた時、道長は不機嫌であったらしい。

妍子は四姉妹の中で一番の美人であったという説がある。しかるに皇子を挙

げられぬうちに三条天皇は譲位し、甥の後一条帝の時代となった。

それから男子を挙げても後の祭りであろう。また、三条の寵愛も移ってくる

こともなかった。それらは彼女の責任と言うより、道長の仕向けた方向で

あり、彼女は捨て駒にされたのだ。

飛びぬけて派手好きで、たびたび頼道の叱責を受けたといわれるが、彼女に

してみれば、「派手に遊んでなきゃ、やってられない」状況だったのだ。

彼女が華美というより、女房に華美な装いをさせ、たびたび宴を催したに

すぎない。彰子が不快を示したという逸話があるが、妍子にしてみれば、

「自分には偲ぶような夫はいない」という気持ちだったろう。

三女の威子。彼女は後一条天皇の後宮を独占した。しかし、20で入内した時、

相手は11歳。9歳年長の后であった。二皇女を挙げたが周りの失望は大きく

天皇が「昔は女帝が立ったこともある」と慰めたという。

彼女の中宮柵立をもって、道長の娘の「三后独占」が成ったのであった。

彼女に幸いなことに、後一条には同母の弟・後朱雀がいて、頼道・教道達

はこの弟の方に娘を入内させた。道長の娘である威子への遠慮からだと

いう。

後朱雀の御息所とも夫人とも称される嬉子は、19歳で死んだ時、尚侍という、

入内の前の定石の地位にはいたし、生きていればやがて中宮にも皇太后にも

なったひとであろう。しかし、19年という生涯は、あまりに短かすぎた。

彼女も生きていれば後宮を独占できたであろうか。後朱雀の後宮には教道の

娘も入内しているが。また、偵子内親王は入内できなかったろう。

そうすると、後三条天皇の誕生はなかった。

後冷泉の後宮は章子内親王(後一条第一皇女、威子の娘)・頼道の娘・教道

の娘の三后並立という唯一の例だという。

後三条に入内した馨子内親王は皇子皇女を挙げたがいずれも早世した。

後冷泉の系統を残そうとした頼道が失意のあまり引退し上東門院の意向で

教道が関白となった時には時遅し、道長三男能信の養子など下位の者たち

が政治に参入してくる時代となった。

上東門院彰子の死に際し、教道は「これからどうしたらいいのだ」と

嘆いたという。

頼道にも教道にも、彰子に匹敵する働きをしてくれる娘がなかった。

数そのものも少なく、男子を挙げたものもなかった。

頼道の正妻は村上帝七男具平親王の娘、隆姫女王と言う。子がなかった。

三条天皇皇女の降嫁の話があったが、妻を愛する頼道は断ったという説と、

三条の皇統に未練のない道長が「頼道は具平親王の怨霊のせいで重病に

なった」といって断ったともある。

この隆姫女王と四姉妹の人生を比べてみるのも面白い。頼道はもちろん妾も

もったし、入内させた娘も後継の息子もこの妾が生んでいる。

それでも頼道は長寿で、隆姫女王は幸せだったと思う。

道長の四姉妹は、19歳34歳38歳で死んでおり、80まで生きた彰子も、

定子の影となり、一条の後継を独占はできたが20代で未亡人となったのだ。
  


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2009年10月22日

道長の四姉妹(前篇)


じゅんじゅんです

源氏物語の女性の誰が好きかとか、誰が一番幸せか(みんな不幸だという

身も蓋もない結論はちょと置いといて)と言う話は、わりと誰とでも出来る

(本当か?)が、道長の四姉妹の誰が一番幸せかなどと言う話は、そうそう

できるものではない。

藤原彰子は道長の長女で、一条天皇の中宮。二子を挙げ、いづれも即位した。

後一条・後朱雀のふたりである。

次女は妍子といい、三条天皇の中宮となったが男子は挙げていない。

三女は威子といい、後一条天皇(つまり甥)の中宮となり、二内親王を挙げた。

四女は嬉子といい、後朱雀天皇の尚侍のとき後の後冷泉天皇を産むが、

19歳で父にも姉妹にも先んじて死んでいる。(でもみんな産んでるのが

すごいよ)

道長には他にも娘がいるが、この四姉妹の他は中宮(嬉子も生存ならば中宮

から皇太后になっていたはず)になっていない。

いろいろ言われているが、やはり、外祖父が親王であり左大臣であった彼女

たちが、同じく親王であったが失脚した源高明の娘である明子が生んだ他の

娘たちよりも、上位に遇されていたのであろう。

嬉子が東宮妃のうちに死んだので、その後釜として、妍子所生の偵子内親王

が後朱雀帝の皇后となった。

これには彰子の意向が多分に働いていて、弟である頼道・教道を制圧してい

た彼女が一家の長であった。

その偵子内親王所生の後三条天皇の即位をもってして摂関政治の終わりとす

る歴史的解釈がどうもいまいちピンとこないのであるが、そこは「外祖父」

という存在が重きをなしていた「摂関政治」の盲点でもあったのだろう。

道長の兵隊として、持ち駒として、みな、遜色ない働きをしたと思うのだが、

男児を挙げられなかった妍子と威子は、道長を失望させただろう。

ただし、その3内親王はいずれも中宮となった。

不犯で終わる皇女がほとんどであり、これは異例と言えるのではなかろうか。

もしかして、これは頼道・教道に子女がほとんどいないことに影響された

かもしれないが、彰子・上等門院の政治の結果なのではないだろうか。

ただ、男子を挙げたのは偵子内親王だけであったが。

道長の四つの駒であった彼女たち。19で死んだ嬉子に「お目ざめ下され」

と泣いた道長が、34で死んだ妍子に取りすがって「お供させてください」と

泣くほどに老い、やがて死んだあとは、陽明門院となった偵子内親王に

対抗できぬ後一条帝第二皇女・馨子内親王の時代となった。

それをもってして、後三条帝を摂関政治の終わるとするのであろう。

第一皇女の章子内親王(後朱雀帝中宮)は「栄華物語」に、おじの頼道の娘

の立后に際して、「皇后」に押し上げられるのを「このまま(中宮)でよい」

と言って拒んだとある。

摂関家も一枚岩ではありえなかった。それほどに「権力」をひとり天皇の

外祖父に集中させる政治、それを何代も続けられたことが、むしろ驚異では

ないか。

24歳ですでに皇女も産んでいる中宮定子の後へ、12歳の女御として入内し

た彰子。彼女の中宮立后は定子の親王出産の直前であった。

「こちらをごらん」という一条天皇に「笛は聴くもので、みるものではござ

いません」と返した彰子。天皇の辞世の句さえ、定子に向けたものであると

解釈される彼女は幸せであっただろうか。

一条帝が愛したのはけして定子だけではなく、ほかの女御をも寵愛した。

ただし定子のことを「優しく懐かしい人柄」と慕う天皇の言葉が残っている。

定子は彼にとって、姉であり恋人であり妻であった。

彰子の二人の皇子は年子である。待望の第一皇子に比べて、この第二王子は

「生まれる必要は特になかった」という解釈がある。だから一条と彰子の

間には「愛」があったと。

彰子は祖母も母も本人も長寿である。たまたま本人が壮健であったにすぎな

いのではないか。ただし、そのようにみなされる余地を後世に残せたことは

彼女の幸せである。彼女は定子の遺児である親王も愛したといわれている。

それには彼女の政治家としての腹の太さを指摘する声もある。

つまり定子所生の天皇が10年在位しようと次の天皇は彼女の第一皇子。

10年在位して次が定子の孫。その次に自分の第二王子。そういう手も

あると考えたのではないかと。

定子所生の皇子には、自分の姪の誰かを中宮に立ててもいいのだ。

しかしそれは一条天皇の系統を残すことであっても、道長が外祖父であり

続けることにはならない。まして玉座は目の前にあっても必ず即位できる

とは限らない。

道長の孫娘たちは子のないものも多く長寿であったが、平安時代の平均寿命は

甚だ低く、40まで生きれば祝う。今の喜寿くらい、あるいは米寿くらいの

おめでたさなのだ。その説は彰子の長寿を知っている後世の考えにすぎない。



  


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2009年10月21日

「晩春」におけるファーザーコンプレックスについて


じゅんじゅんです

小津安二郎の名作 「晩春」

小津映画のヒロインと言えば「永遠の処女」 原節子である。

この物語の主役は 笠 智衆の父と 原節子の 娘 である。

56歳の父親と27歳の娘の二人暮らし。

父親は大学教授で 娘は 戦争中の強制労働で壊した身体を療養中で

回復に向かっている。

「血沈が15に下がった」とか言っているので、「結核」の検査でしょう。

「晩春」は季節なのか、人生の季節なのか、象徴的な言葉であるのだが、

「名作」には多い、解釈多様なタイトルである。

ヒロイン原節子は戦後すぐの世相では、人生の「晩春」にいると思われる。

27なら今の時代、春の盛りと言う感じであるが、「結婚は人生の墓場だから

24までお嫁に行かない」と言う娘が登場するように、そして出戻りの

同級生が、実家にいてもいづらさに「仕事」をしているように、この時代

の27は現代の37歳と思って観るとよくわかる話だ。

父親も66くらいと観る方がよいだろう。56では、再婚してあたりまえ、

しないほうがむしろ「不潔」という関係を不特定多数もちかねない。

原節子は 「結婚なんかしないで、おとうさんとこのまま暮らすのが自分の

幸せだ」というのだ。

この映画の場合、「嫁がぬ」ということは「不犯」を意味する。

私は「尼門跡寺院展」を見に行った時、ほとんどの門跡が長寿であることに

気付いた。

24くらいで早世している方もあるが、ほとんどが「人生50年」を過ぎ、

70以上という当時としては驚異的長寿の方も少なくない。

江戸時代の女性の病と言えば、半分は「産後のひだち」というものだろう。

早世する人のほとんどが、「生めぬほど病弱」か「産んだら病人」のどちらか

なのだ。

その「鬼門」に触れずに人生を生きた尼門跡達が長寿であったのは当然の

ことと言えるのだが、「不犯」であるということは、人生の波乱や万丈とも

無縁であるということともいえるだろう。

仏道の修行といえども淡々とした「日々の暮らし」の連続であった門跡達の

暮らしを「幸せと」とは言えないのだろう。

しかしその「無為」や「平穏」に憧れを覚えないでもない。

笠 智衆の父親は「嫁いでも今以上の幸せはない」という娘に、「(人生は)

そんなものじゃないだろう。しあわせとは、結婚して、ふたりで築いて行く

ものだ。結婚生活にはいろいろ辛いこともあるだろう。しかし、幸せとは

向こうで待っているものではないのだ。」と言う。

真に正しい結婚の勧めだが、原節子の娘の言い分も、「真に正しい不犯の

薦め」だと思ってしまう私がいる。

原節子のヒロインは「お父さんが好きだから」「お父さんが心配だから」

一人残して嫁げないといい、父親の再婚も嫌だと思う。

「自分がいるのにそんな必要はないだろう。」と口にできるほど彼女も稚く

はない。それでも「再婚してもいいから、お父さんのそばにいたい。」

と言う。

それは「父親が好きだから」だけではけしてないが、しかし、やはりこの娘

は、父親を男性として好いているのだ。というより、周りの男性の中で

一番自分の父親が好きなのだ。

この映画で、20代のころ見て不思議だったのは、父親の助手の男性が、娘を

好いているようなのに、他の女性と結婚することだった。

今回「人生50年」を真近に控えて思ったのは、この男性がこの娘を嫁に貰

わなかった二つの理由だ。

20代のころは、それは「上役の娘」だから周りの思念が煩わしいという

気持ちで告白をしなかったが、やはり好きだったと思って後悔しているのだ。

と思って見たが、今回、「自分の愛情では勝てない相手」に気付いていた

からだ、と思い至った。彼の立場では、婿であり助手である養子的立場が

嫌だったのだろうとかかつては納得していたが、彼の愛情はもしかして

もっと深くて、結婚するなら、父親から離れて、自由な未来というものに

漕ぎだしていかなくては、彼女の幸せはない、と思っていたのかもしれない。

イソップ物語の犬は 池に写る自分の姿を見て その水面にうつる肉が

欲しくて「わん」と吠え、咥えていた肉をなくしてしまう。

その肉をなくすのが嫌だと吠えてみない娘に、吠えてみろ、肉をなくしたら

池にもぐって探せ、といってるようにさえ今の私には聞こえるこの父親の

「結婚の勧め」である。

ただしこの肉は、咥えていても食べられない。栄養にはならないのだ。

しかし人には、人生の栄養にはならない食べ物も必要だ。

「ファーザーコンプレックス」は言わば、「嗜好品」である。

嗜好品で重要なのは実際に食べられるかどうかではなくて、自分で自由に

嗜好を選べるかどうか、ではないだろうか。

それは「心の自由」だからである。

嫁いでも、「心の自由」は奪われない。奪われるほどこの娘は弱くはない。

かたくなな「処女(と書いておとめと読む)ごころ」を捨てて嫁に行く話

ではないのだ。彼女のこころは強いから、嫁に行けるのである。

そのことを知っているから、助手は去るのであり、やはり娘の予感通り、

この二人の暮らしが「一番しあわせ」である真実が観ているものの心に残る。

されど万物は流転しなければならない。

「名作」の中のファーザーコンプレックスは、消えるのではなく、真実、

存在し続けて行く。


  


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2009年10月20日

作家の娘のファーザーコンプレックスについて


じゅんじゅんです

ファーザーコンプレックスと言えば、文豪森鴎外の娘、特に長女の森茉莉。

この人を抜かしては、ブーイングの嵐だろう。

しかし語りつくされているかのような森茉莉のファーザーコンプレックス

であるが、彼女の兄弟は、異母兄から弟妹まで、全員ファーザーコンプレッ

クスであり、鴎外の妹などはブラザーコンプレックスであるから、それは

森鴎外という巨人をもってしかるべき結果であって、余人と比べられるべき

ものでもない。

しかるに、幸田文から壇ふみまで、あ、高見恭子というのもいるな、作家の

娘に顕著に表れる、その父親の職業への後継めいた介入と、多く見受けられ

る未婚や出戻り現象について、思うことを述べたいと思います。

後継めいた介入といえども、父親の領域に真っ正面から切り込む力量をもつ

者は少なく、しかし、たとえば鴎外の作家としての面でなく、軍医としての

面を後継して社会的地位をも後継し、さらに鴎外の思い出や研究をもこなし

た茉莉の異母兄とは違い、多くは父親の思い出や父親との係わりをきっかけ

に、エッセイストとして世に知られる。

少なくとも初めは、いきなり小説などから力量を見せつける者は稀で、

初め、「何か書かせてみよう」という編集者のもくろみがらみのエッセイ

から文筆を始める。

幸田文も森茉莉も世に出たのは父親の思い出を書いた一編である。

作家の娘が書くエッセイは、つまり作家が人生で一度は書くといわれる

自叙伝を兼ねることになる

「出てきたら、いきなり名人であった」は向田邦子に対する評であるが、

デビュー作がいきなり自叙伝というのが、作家の娘の強みなのだ。

しかるに、父親の実質上のひとりごであった幸田文が父親の死を看取った

ことをしっかりと記したのに比べ、大勢の兄弟の中で一番愛されていたと

豪語するかの様に鴎外との思い出を終生吐露し続けた森茉莉は、父親を

看取っていないばかりか、臨終の頃には外国にいて、その死を遅れて知ら

された。

そのことでさえ、森茉莉は、「パアパの最後の、最高の贈り物」だと書く。

そしてドイツの風景の中で、「お茉莉、よく見ておけ」という鴎外の声を

聞いたと。

実質的ひとりごであった幸田文に比べ、たとえば壇ふみは兄がすでに

壇 太郎として名を知られていた。

彼女はまず、父親の後押しで女優の道を選ぶ。「父親の小説を読んだら2P

に読めない感じが3っつもあった。そのまま本を閉じた。」と語る彼女は、

クイズ番組に出なくともインテリ女優として知られ、エッセイも多く出版

しているが、小説を書いたという話は聞かない。
 
職業はあくまで女優であり、司会やエッセイストもこなすが、マルチタレン

トに陥ることなく、女優としての評価を得ている。

そこに彼女の襟持を見るのだが、ちゃくちゃくと女優としての基盤を作りつ

つエッセイストとしての力量を見せつけていくことのできた彼女に比べ、

早くに結婚し、二児を挙げ、その子らを置いて婚家を出た森茉莉は、次々と

結婚し、堅牢な家庭を築いて行く兄弟たちが、次々に鴎外の思い出を著し

世に出て行くのを見せつけられた。

そして彼女は、再婚し、再び出戻る。それからは、彼女は発表するあての

ない草稿を積み上げて行った。

その彼女のいらだちを語るには、私には資格が足りない。

それは彼女のエッセイと、「問題の」、弟・類(るい)の「森家の子供たち」

は読んでいるが、異母兄と妹・小堀杏奴のエッセイは手に取ることなく、

他著の彼らの作品の引用を読むことで済ませてしまっているからだ。

それは彼ら二人の、兄弟の中の長兄と二女のエッセイが、「森鴎外」を語って

いて、自分たちの自叙伝ではないからだろう。彼らは「自分を語る」ために

「鴎外」を語るのではないからだろう。

その点、茉莉と類には、「自己を語りたい」欲求があったと思われる。

茉莉は「自分が一番愛された」と信じたいために。類は「自分が兄弟の中の

黒い羊であった、そのふがいなさ」を自分自身に許してもらうために?

森 於兎 博士には医学者としての顔が、小堀杏奴には小堀遠州の流れを

組む小堀家の主婦としての顔があった。

壇ふみには女優としての顔が、幸田文には「孝行娘」の顔があり「おとうと

おもいの姉」としての顔があり「しつけに厳しい母」としての顔があり、

さらに「幸田露伴の実質的ひとりご」としての顔さえあった。

高見恭子にさえ、モデルとしての顔がある。そして彼女は「私生児」という

小説さえ著した。

しかし、森茉莉には「顔」がなかった。彼女は「大富豪の息子で仏文学者の

夫の妻」としての顔を捨ててしまった。しかし、「女性の職業」というものが

「卑しいものしかない」もとい、女性が働くことが「卑しいこと」であった

時代に、「顔なし」文筆はできないので、再び鴎外の社会的地位であるところ

に相当する「大学教授」と再婚するが、その顔も「東北には帝劇がない・

三越がない」という不満のために?はがされてしまった。

その彼女の誇りの源は、あるいは鴎外によって命名された華麗な名前で

あったかもしれない。そして、鴎外によって命名された孫は、於兎博士の

三男までと、自分の息子だけであった事実であったかもしれない。

日本のどこに「真章(マクスと読む)とジャック(こちらは一文字だが当用

漢字にない。爵の複雑版)」なんて従弟同士がいるだろうか?

博士の五人の息子はすべて学士になった。その中の一人、譲治氏は少々文筆

に手を染めたようで、茉莉との交流の思い出を語っている。

叔母はあるとき、キッとなって、「わたしは文学者だよ!」と言ったと。

その「顔」を手に入れるまで、彼女の苦労と懊悩はいかばかりであったろう。

しかし彼女の「ファーザーコンプレックス」は、彼女の「力杖」となって、

「文学者」として自負するところまで連れて行ってくれたのだろう。

「作家の娘」であるという事実が、自分たちの「力杖」であることを一番

自覚しているのは彼女たちではないだろうか。自覚しているからこそ、強い

「力杖」であるのだろうから。


  


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2009年10月19日

グレース・ケリーのファーザーコンプレックスについて


じゅんじゅんです

文学部とか演劇部の卒論じゃありません。

梅子さんのリクエストのロイヤルネタから連想した即興です。

グレース・ケリーはヒッチコックのお気に入りの女優で、「マーニー」も

有名な「鳥」も彼女主演で撮りたかったのだが、レーニエ公がというより

モナコの国民感情が許さず、実現しなかったらしい。

グレースはアメリカ人で、移民3世だが、父親が事業に成功しリッチマン

で、叔父はピューリッツアー賞も受けてる劇作家。

演劇学校に通ってモデルをしていても、要するにお嬢様だった。

彼女はリッチマンな父親の3人目の子供で、上に姉と兄がいて、下に妹が

いた。グレースは、三人姉妹の中で、今写真を見ても当然一番の美少女なの

だが、痩せぎすで、内気で、スポーツより読書を好む彼女より、健康美人

の姉の方が父親のお気に入りだったようだ。

そして、父親の期待にこたえられるだけの知能と体力をもった兄さえいた。

後年でさえ父親は、「私は姉妹の中で成功するものがいるとすれば、それは

パトリシア(長女の名)だと思っていた。」と証言している。

グレースは演劇学校に通っている時代から、えらく年上の男性に弱かった。

しかも、「成功していて、プレイボーイで、女の扱いに長けている

ひどく年上の男性」そういう男性がいると「まさに、グレースの好みに

ぴったり!」と周りが評したが、周りが気づいた時にはもうふたりは付き

合っていて、彼女は相手の男に夢中。もちろん相手の男性も彼女にぞっこん。

それで何が問題かというと、20代の彼女に対し、相手が40代ともなれば

当然相手は既婚者であるということ。

80年代アメリカなら精神分析医通いとなるところだが、時代は60年代。

ケリー家では父親が相手の男性のもとへ乗り込む一方、グレースには母親か

妹が撮影現場にぴったりくっついて恋路を断ち切らせた。何度も何度も。

そう、グレースは何度でも、ひどく年上の男に恋した。それは恋というより

渇望に似ていた。当然与えられてしかるべきものが与えられなかったことに

よる渇望だ。

彼女が求めていたのは、父親の愛だったと思われている。そう、あまりにも

あからさまで、誰だって気がつく。「彼女はファーザーコンプレックスだ。」

実はグレースには婚約までした同年代の男性がいた。しかしその男性とは

別れなければならなかった。そう、彼の死でふたりは分かたれた。

その痛手が、彼女を喪失感の中に突き落とし、その喪失感が彼女に渇望して

いたものを思い出させたのであろうか。無意識に。あるいは意識的に?

レーニエ公との「お見合い」はテレビ局の企画とも、ケリー家が手をまわし

たとも言われていたが、「レーニエは年上でプレイボーイで女の扱いに長け

ている。まして国王だ。グレースの好みにぴったり。」というのは衆目の

一致するところであったようだ。

「恋多き女」と思われていた彼女は、女優の美貌はそのままに、品格と威厳

をもった国民自慢の王妃となった。貞淑な。

思うに、心がひとりに向けられていれば、他の男なんかはジャガイモに見え

る。レーニエがどんなに浮気をしようと、そしてそれが不快であろうと、

父親に気に入られず、反抗半分「恋多き女」を演じれば父親に軽蔑され、

結局望んでいた愛情を父親から受けるために、王妃となれば見直してくれる

と信じて多くの持参金とともに王妃の座に就いた彼女には、少々の痛手で

しかなかったかもしれない。

そしてそんな彼女のこころの冷たさがレーニエの心を寂しくさせ、さらに

浮気に走らせたのだろう。

グレースには義務があった。世継ぎを挙げること。男の子を産まなければ

モナコはフランスに吸収されてしまうことになっていたのだ。

全国民の期待であるとともに、それは父親の期待でもあった。

グレースを嫁がせた時、父親の感想が「やれやれ、かたづいた。」であった

としても。

「雪をかぶった活火山」 ヒッチコックのグレース評である。

義務と努力という冠をかぶって王妃を演じ切った「雪」の表情の下に、

「活火山」であるところの渇望を封じ込めたグレースは、テレビ局の

インタビューに対して、こんなことを言っている。

「女にとって、40歳になることは悲惨です。」

確かに40代というのは、肉体的にも社会的にも老いの段階に入っていく

時期だ。そして、そろそろ人生の果実の実り具合を予想できる時でもある。

彼女の努力で経済的に立ち直りつつあったモナコ公国の近代化の失敗。

「木を見れば果実がわかります」と公言して励んだ子供たちの教育の結果。

ケリー家でも姉は二度も離婚。兄はアル中となりおんな狂いの揚句死亡。

( 思うに、姉も兄も父親の呪縛から逃れられなかったのだろう。

「人生は自分で勝ち取れ。勝つためには勝ち続けるんだ。」移民の子として、

全員、新興成金ケリー家の一員として義務を果たしたといわれている

10人兄弟、その長子である父親のプレッシャーに耐えることが出来

なかったのだ。 )

父親も亡くなり、母親も寝たきりになったという。

彼女の予想通り、その後の彼女の人生は悲惨の一途であった。

レーニエとの不仲は深まり、彼女は深酒に溺れていたといわれている。

だから、自動車事故が起きた時、「あれは自殺だ」という噂もたったのだ。

しかし、彼女の顔は無傷だった。

美しい死に顔をさらして、絢爛な葬儀の主役となった彼女は、伝説となった。

そして、「ファザーコンプレックス列伝」の一章を勝ち取り続けるのだ。
 

  


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2009年10月18日

畳の面積換算法


まっさんです。

さて、昨日は寸法の規格について書きましたが、畳割りについては実は更に

覚えておくと、得な事があるのです。

良く四畳半というと、畳は4枚と半畳が1枚ですね。

それを坪に換算したり、平方メートルに簡単に換算する方法です。

よく4月の入学、就職、転勤等で不動産屋さんを利用する人が多いと思いま

す。

実際、広告のチラシ等をみてみると、和室6畳、ダイニングキッチン、風呂

トイレ付き等といった物件情報を目にしますよね。

ここで、六畳って何㎡位だろう。何坪位なんだろう。文字だけではぴんとこ

ないなと思われる方もいらっしゃるのではないかと思います。

では簡単な換算方法を教えましょう。

例に六畳の場合を想定します。

畳二畳が1坪です。

ですから、六畳は3坪です。

坪3.3㎡を掛け合わせると9.9㎡となります。簡単でしょ。!!

でも、厳密に計算していくと、これがまた難しくなってしまうのです。

まず。「間」(けん)という規格された単位があります。

この寸法は、1820mmで規格化されています。

畳の六畳とは長方形となりますが、(1.5間×2間)×2=六畳となりま

す。

すなわち、実際に部屋を見に行って測ってみれば分かりやすいのですが、短

辺が2.730m、長辺が3.640mのサイズが六畳のサイズです。

短辺と長辺を掛け合わせると、㎡が表示されるわけです。

計算すると9.99372㎡となります。

同じ9.9という数字を出すのにこれだけの差があるのです。

このほかに、寸法のサイズには「寸」と「丈」といった規格サイズもありま

す。

寸とは、約3㎝になります。

昔、一寸法師の話がありましたが、大体身長が3㎝だったわけです。

また丈とは、約3mです。方丈とは一丈四方で四畳半より少し大きい位にな

ります。

まっさんでした。


  


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2009年10月17日

モヂュラーコーディネーション


まっさんです。

さて、普段、私たち日本人に愛着が深い「畳」。例えば四畳半とか六畳とか

誰でも共通して広さを思い浮かべられますよね。

実は、これが「畳割り」といって、日本古来のモヂュラーコーディネーシ

ョンなのです。

しかし、畳が全て同じ寸法かといえば、そうではありません。

関東間、中京間、京間といった3種類の規格があるのです。

本来、モヂュールとは、規格化された寸法の単位の事なのですが、誰でも

全く同じ寸法の製品が作る事が出来るといったメリットがあります。

この考え方によって、いろいろな製品が大量に作られ、安く購入する事が

可能となったといえるでしょう。

この考え方は、建築やインテリアコーディネートの設計をする際にも用い

られているのです。

では、誰が最初にこういった規格に関する単位を思いついたのでしょうか。

答えは、大昔に遡ります。

そう、今から2~3千年前の古代ギリシャによって考えられたのです。

ギリシャでは神殿の柱の直径をモヂュルスという単位として、これを基礎

に建築の他の部分の設計に応用していったのです。

日本でも「木割」といって、書院造りの設計の際に取り入れられています。

もっとも、書院がでてきたのは鎌倉時代以降ですが。*****

ちなみに「木割」とな何なのかと申しますと、柱の幅寸法をモジュールの

基本単位として設定しておき、その他の部材の寸法を基準寸法の1/2とか

3/4としてそれぞれ組み立てていったわけです。

近年、このモジュールについて、人体を規格化していった人がいます。

この人がフランス人の「ル・コルビュジェ」です。

彼は人体を黄金比といった規格で分割していったのです。

その図も以前アップしましたが、頭が異様に小さくて肩の部分が左右不均

衡で、左手が大きいといった特徴があります。

現在では、ISOといって、国際標準化機構が10㎝単位を「1M」で表す事

に規格化されています。

まっさんでした。


  


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2009年10月16日

女性は心が強いから

じゅんじゅんです

ある男性医師がいうことには、「男性は全身麻酔が醒めた後、錯乱状態に

なるひとがよくいます。(たまに、じゃないのね)女性はそんなことないん

ですがね。心が強いから。。。」

女が強いは定番の概念だけど、「心が強い」って、なんか、心情がこもって

いませんか。

そうすると、男性は心が弱い?それとも、本人が、心が弱ってるのかな。

先日、遠方にいる女性の友人と、電話で話していると、私のことを、

「強い人だね。強い強い。」というのだ。褒めて言ってるつもりらしいが、

私は公園なんかで、若い母親が、転んだ小さい男の子に向かって、「OO君

泣かないの!あ~OO君は強い強い!!」と言って、自力で立たせる場面を

思い出していた。

小さな男の子なら、ママから「強い強い!」と褒めてもらえたらうれしいの

だろうか?たとえ、ママの懐に小さい妹が抱っこされていても?

 そうなのだ、「女性は心が強い」と一般論で言われても、直接「強い人」と

決めつけられても、どちらも嬉しくなかったのだ。

「強い」という言葉は肯定的に使われていても、何か、突き放す冷たさを

感じさせる言葉だ。

たとえ、常勝横綱北の湖でなくても、「強い!」と言われると孤独を感じる。

私の愚痴や恐怖を話させてほしい。黙って聞いてほしい。そう感じるのかも

しれない。

しかし、誰に聞く義理が?それでNYやLAでは、精神分析医が流行ったの

だろう。

  馬鹿な子ほどかわいい、というが、それは、手をかけた子の方が可愛く

感じるようになる、ということだろう。

かまってもらえないさびしいおりこうさん。「強い人」って、わたしにとって

は、そういうひとだ。強いのではなくて、我慢するひと、頑固なひと、

つまり「助けて」と言えぬ、意地っ張りなひとだ。

 「女性は心が強い」とは、どういう意味だろう。

落ち込んでも、傷ついても、一人で立ち上がってくるという意味?

それとも、何が起ころうとも、一度覚悟を決めたら、じたばたしないって

意味?

そんな超人がいるのだろうか。気づかないふりをしているのか?

人知れず涙を流していることに。それとも、人知れずしか涙を流さないこと

を「心が強い」と言うのだろうか。

大学の2年生のとき、ゼミ決定の前に、ゼミをもっている教授や助教授の

研究室を見学訪問する期間があった。

私は入学時から親しかった女子達と、あるときはふたり、あるときは3人

で研究室めぐりをした。

そのとき、ある助教授が、私を評してこう言った。

「君はドイツの少女みたいなんだろうな。人前で泣かず、自分の部屋で一人

で泣くんだよ、ドイツの女の子は。」

余りにも当たっていて笑ってしまった。そしてそのゼミには入らなかった。

私は子供の頃、泣き虫だった。人前で手放しで泣いた。

大きな体で、大きな声で泣く私は、大きな子供だった。

大きな子供のまま、人前で泣かなくなっただけなのだ。

それを言い当てられた気がして、そのゼミに入らなかった。

私が入ったゼミの教授は、教育実習に行く私の身上書に、私のことを

「飲み込みは遅いが、正しく理解する」

「理解は遅いが、物事の本質をつかむ。」

「コケティッシュで明るい」

なんか、3段落ちみたいな、評なんですけど。そんなにグズいっすか私。

それに「コケティッシュって、きょ教授?!行くのは教育実習なのに~」

いまだに、しっかり覚えていますよ。この3段落ちの人物評。

でも、今までで、一番気に入ってる言葉達でもある。

そして思うのだ。大学生の時の私は「コケティッシュで明るい」表面と

「自分の部屋でだけ一人で泣く」深層をかかえて、生きていたんだなと。

さらに思うのだ。

見た目が年をとって、「コケチッシュで明るい」が「しっかりした人、

強い人にみえる、思える」だけなんじゃないかと。

深層はいまだに、「一人で泣いてる女の子」のままなんだなと。

「女性は心が強いから」 錯乱しないのじゃなくて、常に表面と深層を

抱えて生きているから、心の均衡を保っていられるのだろう。

どの場面にも二人の自分がいて、心が傾いて、心の中の水があふれたり

こぼれたりしないように、両側から支えているからだろう。

下の写真は、アマリリスの1種です。


  


Posted by massan&junjun at 20:35Comments(2)

2009年10月15日

書きたいことがあふれ出る朝


じゅんじゅんです

年のこととて、頻繁に早朝覚醒に見舞われる。

トイレに行って、さあ、もう一度寝ようととするのだが、次から次に連想が

移り、書きたいことがあふれ出る朝、というものが時々ある。

そして決まって、そんな朝に限って、ケツカッチン、時間がない。

私はブロガーにつくづく向かないと思うのはそんな時だ。

それらの中から一つに絞って書き、他は捨てる、ということがまずできない。

文章が長くなる傾向があるうえに、思いついたそのときに一つに絞れない為

ひらめきから時間がたってから文章にすることになり、せっかく天から

降ってきた名文の種さえ、台無しにする。(まあ芽が出ないうちからいい種

かどうかなんてわからん)

そしてその駄文を書きためることになり、惜しいので順に発表し、ブログの

真骨頂である、即日性とか新鮮さとか同時性とかが全くなくなる。

そして優しい皆様に読んではいただけても、コメントはいただけない。

ブログの特性の利点を欠いていては、コメントの返しようがないので仕方の

ないことなのだろうと思い至った。

それで今朝思いついたことを、順に書き出してみます。

続きを読みたい方は、番号でお知らせください。

①  幼児を海辺で過ごしたことのある人の午睡の夢には、海の味が混ざる

ことがある。

②  今は亡き舅の言葉で、一番に覚えているのは、「口数の多い人に、

仕事の出来るひとはいないものだよ。」

③  題名は「短い恋」で、書き出しはなぜか、「清い子と書いて、さやこと

 お読みする。我らがアラフォー独身女の星であられた紀宮清子内親王殿下

 は真に、さやけき、御方であった。」

④  あなたは、だれかの「天使」であったことがありますか?

ま、今日はこのくらいにしといてやろう。違うか?!

リクエスト、お待ちしております。

このメモから、文章に起こせないようでは、いよいよ来てる?!ということ

で、リクエストが楽しみな半面、恐ろしくもあるので、なるべくみなさん、

お早くお願いします。

上記メモ以外でも、どうかひとつ、「お題」を頂戴したいです。

他人(と書いてひとと読む)の関心ごとって、なかなかわからないものです。

しかし、私は「記者」ではないので、やはり自分のことを書き続けて行く

でしょう。


  


Posted by massan&junjun at 22:10Comments(3)

2009年10月14日

新・三銃士


じゅんじゅん

NHKの人形劇、「新・三銃士」の番組宣伝を見ました。

NHKの人形劇と言えば「八犬伝」

同級生のM・H君はず~っと毎日かかさず見ているらしかったが、わたしは

序盤の「犬塚志乃」の段階で脱落した。

それに「われこそは、たまづさが おん りょう~」もいい加減しつこかっ

たし。毎回15分というのも気が萎える原因だったと思う。

今回 脚色(そう だって原作は確か文豪バルザック)は三谷幸喜(ちなみ

に巨人・大鵬・卵焼きの大鵬幸喜が大関のころ生まれてますね。ちょっと

年下のウンナンのナンちゃんこと南原清隆は栃錦清隆から取ってると思うが)

エンディング・テーマは平井 堅が歌う。

その歌詞も三谷幸喜が書いていて、たぶんに、「八犬伝」の坂本 九の歌っ

た「ひとりぼっちじゃないんだ♪ まだ知らないだけなんだ~」を意識して

作ったと自ら告白。

「平井さんも さすが わかってらっしゃって、いつもの泣き節をおさえて

くれた」みたいなことを述べていたが。。。

はっきり感想を言うと、「君はやっぱ楽園でも歌ってなさい」だった。

私のセンスで言わせてもらえば、あの「おうちにかえろう」のひとを

フューチャーすべきだったと思うよ、三谷君。

まあ、こういう番組は「えっ?ダルタニアンって三銃士のひとりじゃなかっ

たんだ?!」レベルより下の人から、出来ればバルザックを読破したような

ひとまで(そしてその人が「よくできてる」と認めて、優良子供番組として

推薦してくれるの)取り込む必要がある。

そしてマニア受けさえしなければならない。「三国志」では俯瞰撮影やCG、

人形が火の粉を受けたり水をかぶったりしたことを紹介していた。

「人形にミスキャストなし」が私の持論だが、また人形劇はそうあらねば

ならないと思っているが、「三国志」には確か、シンスケリュウスケの人形と

声の出演があり、それがうざかった。

その残念さは、「レッドクリフ」における、呂蒙の描かれ方に匹敵する。

だいたいあれだけハリウッド映画に脚色していながら、大嬌(橋だっけ?)

を出さないってどういうこと?アメリカ人って美人姉妹の区別もつかない位

頭悪いから人物図も簡単にしたの?おいおい。ヴィスコンティさえこます

日本の観客を舐めんなよ。

それに「美人姉妹をはべらせたい」って完全にでっち上げらしい(詩人の

妄想?)嫌らしい望みを掲げて悪役度を増すのがお約束ってものだと思う。

だけど、まっさんのような「三国志には詳しいぜ、どっぷりハマったからな」

な夫婦50割引の担い手の悲しいところは「三国志と全然違うじゃん」と

怒っていても、観てしまい「超雲はあんな感じだろうな。。。あの俳優は

ぴったし。」「関羽はやっぱあんな感じじゃないと、中国の人が承知しないの

かもね。それに、あれじゃ、この赤ん坊の継母なのに。。。ってことは

わかんないじゃん。」「テレビシリーズじゃないから尺が足りないよ。それに

常識の範囲。」とそれなりに堪能してしまうところだ。

だから、どんなに脚色されようと耐えられることが、原作のすばらしさの

証明のようなところがある。

NHK人形劇では「平家物語」も取り上げた。今回の番宣でも触れられて

なかったように思うが、「これが高視聴率なら、次は源氏物語」と期待して

いながら途中で脱落しました、私。やっぱ毎回15分では、浸れません。

15分って。子供の集中力を完全に馬鹿にしてたでしょNHK。

それに年寄りには、いくら一挙再放送してもらっても、毎回のオープニング

テーマとエンディングテーマの省略なしはきついです。そうですか、ビデオ

にとって、自分で飛ばして視ろと。ご配慮ありがとう(怒

新・三銃士は視てみたいが体力が続くか心配。

そんな心配をさせられるのも、「エンターテイメントはふざけちゃおしまい」

ということをピシュピシュウじゃない、肝に銘じてくれていないような気が

するのよ三谷幸喜。コロンボをリスペクトして生まれたという古畑任三郎。

全作見といてなんですが、シャローク・ホームズをもじって作られたという

「ドクターハウス」のクオリティに完全に負けてるし。

まあドラマは脚本家だけの責任じゃありませんがね

「平家物語」はさすがに原作・俗説混みで押し切っていたが、そうすると

わかってるだけに「もういいや」と視るのをやめてしまいがち。

それに原作が長いから、「よっ、たっぷり!!」と声をかけたい場面も

さらっと15分ずつ、流して流しておしまい。だってだって、3年がかり

の大事業になりますう、平家と源氏を「たっぷり!!」やると。

それに脚色力が足りないわね。古館さんのどろどろじゃ子供向きじゃないし。

でも子供が一番気に入るのは「たまづが、おんりょお~」だったりするんで

すが。

新・三銃士では「王妃様」の不倫?!いやふたりを愛してる状態なんでしょ。

やっぱ不倫か。そこがちょっとみたいとこ。ただその声優をアシスタントに

出してたのは失敗でしょNHK。「不倫は文化」は真実だからみんな怒った

のよ。「お前みたいな馬鹿が言うな!」そう。馬鹿に不倫してもらいたくない。

せめて人形劇の中だけでは。


  


Posted by massan&junjun at 06:19Comments(2)

2009年10月13日

虚無への供物


じゅんじゅんです

きょう新横浜の有名な病院へ診断書を書いてもらいに行きました。

初診の理由と、転院の理由が必要だったもので。

ここは産婦人科・小児科がメインですが、内科やエイジレス科などもある

のです。

しかし、ロビーを新生児を抱いた母親や、妊婦さん、よちよち歩きの子供

たちが占拠しているので、子供のできなかった私には通うのが辛くて、

子宮がん検診や乳がん検診も出来るのですが、他院へ移ったのです。

当時、転院の希望を告げると、転院先が大学病院だったので、さらに高度な

不妊治療を受けるのだろうと誤解され、温かい励ましの言葉をいただいて

転院したのでした。

久々にロビーに足を踏み入れると、あいかわらずの大盛況で、見ないふり

をしても目に入ります新生児。だけど4~5年前と違ったのは、前は受付

の上に電光掲示板があり、新しく出生した赤ん坊の名前と母親の名前を

流していたのですが、その装置が見当たりませんでした。

やっぱり少子化で、出産だけを取り扱ったのでは経営がむづかしい。

不妊治療やがん検診やエイジレス外来(って気になる。ホルモン治療かな?)

に来て、あれをみて悲しかったり複雑だったりする患者もいるので止めたの

だろう。それとも私の目に入らなかっただけ?

他人の出産情報より自分の順番があと何人で来るかの方がどの患者にも重要

なので、診察室ごとの順番の進行状況を番号表示する画面がロビーの正面に

出来ていました。

前の副院長が院長になっていて、私を診察したことがある医師はそのひとだ

け。院長先生はあらかじめ電話で取り寄せを頼んでおいたカルテを見ながら

「おもいだしますね。。。おりおりを。」といい、なるたけ簡潔に診断書を

書こうと苦慮したのでしょう。

初診の理由は、頭痛と不正出血だったのですが、ひとことでなぜこの病院を

選んだかというと、子供が欲しいと思っていたからなので、院長先生は

「いろいろあるけど、こんなのは。。。」とカルテをゆびさし、結局、

初診理由_挙児希望にて受診 と一行で表現してくださった。

転院理由は 本院では婦人科検診のみフォローのため 

なるほど、便宜のために大学病院に転院した、と。

事実のみ。誇張や虚構はいささかもなし。

でもね。私はこの「挙児希望」が「虚児希望」に一瞬見えてしまって。。。

すぐに、「あ、なるほど挙児か。これから不妊と言わず、挙児希望ですって

表現が一般的になるべきでは?」と急いで思い直したのでした。

それでも、この「挙児」の文字は、心に刺さるなあ。

私はもともと、「子供は欲しい。自分で産むのは怖い。無痛分娩がいい。」

とか思っていたへなちょこだったので、子供ができない覚悟はしていたし、

若いころから、時代劇を見ても、秀頼大事の淀殿より、伊達政宗の長男や

徳川家康の次男、宮様や宇喜多秀家などの数人の養子や加藤清正や福島正則

の少年時代を知っていて、自分の甥をかわいがらず秀吉に叱られ、その金吾

中納言を秀吉が小早川家に養子に出した時、「かんにんしてちょうよ。

塩の足らん子を押しつけてしもうて」と心の中で手を合わせつつ舌も出して

いたろう北の政所ことおね様の方が、贔屓だったのだ。

それでも、幻の子供のために、ニューズウイーク誌の「0歳からの教育

4歳からの学習」も読んだし、「早寝早起き4回食」も読んでいた。

お受験の情報誌から体育教育中心の幼稚園のチラシから、女の子のための

発表会用ドレスの洋裁本も。

それらは弟に子供が生まれた時、渡そうと何度か思ったが、止めた。

それらの本は書斎の(子供がいないので書斎はある)本棚の一角を占拠して

いる。それらを読んだ時間も保管しているスペースも「虚無への供物」と

言う気がしないでもないが、私という人間を文章に例えるなら、この供物は

行間であり、メモ書きに役立つ余白でもあるはずだ、と思うのだ。


  


Posted by massan&junjun at 22:24Comments(0)

2009年10月12日

活目せよ!!

じゅんじゅんです

ユースケ・サンタマリアが平成教育委員会で毎回何度も叫んでいたが、

本来、活目という言葉は、「男子、三日会わざれば、活目して見よ」という

ような、深い意味を伴って使われるべきであろう。

先日、弟たちと新横浜で待ち合わせをしたが、私の依頼では、用事も待ち

合わせした新横浜で済むものと思っていたらしい。

「だって、どこに行くとか、何も聞いてない。何?これから東京へ行く?」

申し訳ない。用事の内容から行先は明白と思いこんでいました。

「言葉が足りないんだよ~」とまっさんにも言われる始末。

そう、きみまろじゃないが、「口数が多くて、言葉が足りないのです」

はあ。。。もちろん、弟を見くびっていたわけではありません。

弟が先に大学に入学した時から(あちらは現役、こっちは浪人)いいや、

これから「妹」になろう。どうせ嫁に行く身、姉でも妹でも同じなら

妹の方がいいもん!と思いついたときから「兄貴」として遇して。。。

いないなあ。。。やっぱ、あちらはサラリーマンを7年していただけあって

(私は青息吐息で足掛け3年のOL生活プラス派遣だった)対社会的対応

が、私より上手。それにこなしの極楽とんぼな私と違って3人の子持ち、

老けても見えるらしく、用事先のひとにも「お兄様も」とか後日言われる

始末。で、即座に私は「弟です!」と言い返してしまった。

何をムキになってる?私。

どうしても弟は、私の中では、オシメをしていて、写真を撮ってもらってい

る私のところへ、道路の反対側から車の走行列も無視して走って来て、驚い

て胸を押さえている私の横へ、よっこらしょと花壇の壁へよじ登ってくる

あの姿のままなのだ。そのオシメのお尻が胸を押さえている私の横へよじ

上っている写真が残っている。どう見ても病弱な姉に元気な弟、だな。

もちろん、何時の頃からか、弟の一挙一投足に、どきどきハラハラすると

いうことがなくなった。

むしろ、弟が、葉隠れ流?立ち居振る舞いに長じて、立派な応対態度、要す

るにお行儀よい大人に見える(笑 ようになってから、私は、お行儀なんか

気にしない優雅(「斜陽」のお母様じゃないが、いわば没落貴族の栄華の

名残り)を目指してしまうようになった!!

やっぱ、一応姉なんだから、もうちょっとしっかりしなきゃいけないかな

とおもいつつ、立派な夫と立派な弟に恵まれて「幸せですねえ~」と

言われてしまうと、返事に困る。

私だから、こういう夫に、こういう弟になったのであって、私にとっては

当たり前、な~んて、傲慢かまして、よかですか?

それでも思ったのだ。伯母の臨終から何日後かの葬儀の時の従弟を見て、

通夜の後にぶっ倒れて、病院に運ぶと、診察室で子供のように小一時間寝て

いたというのに、立派な大人になっていたことを思い出す。

「男子、三日会わざれば活目して見よ」

男は、常に、見直して、どんどん評価をあげて行ってあげないといけないと。

それでこそ「男の馬鹿で女の利口とちょうど釣り合う」などと言わせない

(でもある意味それがいい組み合わせだが、意味するところとは違う解釈に

なるか)女を上げるとか磨く行為になるんだと。

だから「まわりにいい男がいない」「いい男はどこにいるの?」というひと

には、「男子三日会わざれば、活目して見よ」という言葉を贈りたい。

でもちゃんと、「短気・単純・短絡的」で申し述べたことを、肝に銘じて

つきあっていかなきゃだめですのよ。


  


Posted by massan&junjun at 12:36Comments(6)