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2009年10月22日

道長の四姉妹(前篇)


じゅんじゅんです

源氏物語の女性の誰が好きかとか、誰が一番幸せか(みんな不幸だという

身も蓋もない結論はちょと置いといて)と言う話は、わりと誰とでも出来る

(本当か?)が、道長の四姉妹の誰が一番幸せかなどと言う話は、そうそう

できるものではない。

藤原彰子は道長の長女で、一条天皇の中宮。二子を挙げ、いづれも即位した。

後一条・後朱雀のふたりである。

次女は妍子といい、三条天皇の中宮となったが男子は挙げていない。

三女は威子といい、後一条天皇(つまり甥)の中宮となり、二内親王を挙げた。

四女は嬉子といい、後朱雀天皇の尚侍のとき後の後冷泉天皇を産むが、

19歳で父にも姉妹にも先んじて死んでいる。(でもみんな産んでるのが

すごいよ)

道長には他にも娘がいるが、この四姉妹の他は中宮(嬉子も生存ならば中宮

から皇太后になっていたはず)になっていない。

いろいろ言われているが、やはり、外祖父が親王であり左大臣であった彼女

たちが、同じく親王であったが失脚した源高明の娘である明子が生んだ他の

娘たちよりも、上位に遇されていたのであろう。

嬉子が東宮妃のうちに死んだので、その後釜として、妍子所生の偵子内親王

が後朱雀帝の皇后となった。

これには彰子の意向が多分に働いていて、弟である頼道・教道を制圧してい

た彼女が一家の長であった。

その偵子内親王所生の後三条天皇の即位をもってして摂関政治の終わりとす

る歴史的解釈がどうもいまいちピンとこないのであるが、そこは「外祖父」

という存在が重きをなしていた「摂関政治」の盲点でもあったのだろう。

道長の兵隊として、持ち駒として、みな、遜色ない働きをしたと思うのだが、

男児を挙げられなかった妍子と威子は、道長を失望させただろう。

ただし、その3内親王はいずれも中宮となった。

不犯で終わる皇女がほとんどであり、これは異例と言えるのではなかろうか。

もしかして、これは頼道・教道に子女がほとんどいないことに影響された

かもしれないが、彰子・上等門院の政治の結果なのではないだろうか。

ただ、男子を挙げたのは偵子内親王だけであったが。

道長の四つの駒であった彼女たち。19で死んだ嬉子に「お目ざめ下され」

と泣いた道長が、34で死んだ妍子に取りすがって「お供させてください」と

泣くほどに老い、やがて死んだあとは、陽明門院となった偵子内親王に

対抗できぬ後一条帝第二皇女・馨子内親王の時代となった。

それをもってして、後三条帝を摂関政治の終わるとするのであろう。

第一皇女の章子内親王(後朱雀帝中宮)は「栄華物語」に、おじの頼道の娘

の立后に際して、「皇后」に押し上げられるのを「このまま(中宮)でよい」

と言って拒んだとある。

摂関家も一枚岩ではありえなかった。それほどに「権力」をひとり天皇の

外祖父に集中させる政治、それを何代も続けられたことが、むしろ驚異では

ないか。

24歳ですでに皇女も産んでいる中宮定子の後へ、12歳の女御として入内し

た彰子。彼女の中宮立后は定子の親王出産の直前であった。

「こちらをごらん」という一条天皇に「笛は聴くもので、みるものではござ

いません」と返した彰子。天皇の辞世の句さえ、定子に向けたものであると

解釈される彼女は幸せであっただろうか。

一条帝が愛したのはけして定子だけではなく、ほかの女御をも寵愛した。

ただし定子のことを「優しく懐かしい人柄」と慕う天皇の言葉が残っている。

定子は彼にとって、姉であり恋人であり妻であった。

彰子の二人の皇子は年子である。待望の第一皇子に比べて、この第二王子は

「生まれる必要は特になかった」という解釈がある。だから一条と彰子の

間には「愛」があったと。

彰子は祖母も母も本人も長寿である。たまたま本人が壮健であったにすぎな

いのではないか。ただし、そのようにみなされる余地を後世に残せたことは

彼女の幸せである。彼女は定子の遺児である親王も愛したといわれている。

それには彼女の政治家としての腹の太さを指摘する声もある。

つまり定子所生の天皇が10年在位しようと次の天皇は彼女の第一皇子。

10年在位して次が定子の孫。その次に自分の第二王子。そういう手も

あると考えたのではないかと。

定子所生の皇子には、自分の姪の誰かを中宮に立ててもいいのだ。

しかしそれは一条天皇の系統を残すことであっても、道長が外祖父であり

続けることにはならない。まして玉座は目の前にあっても必ず即位できる

とは限らない。

道長の孫娘たちは子のないものも多く長寿であったが、平安時代の平均寿命は

甚だ低く、40まで生きれば祝う。今の喜寿くらい、あるいは米寿くらいの

おめでたさなのだ。その説は彰子の長寿を知っている後世の考えにすぎない。



  


Posted by massan&junjun at 21:56Comments(1)