2009年12月28日
祖父の格言シリーズ② 子供を打つな からかって泣かすな
じゅんじゅんです
私の祖父は陸軍幼年学校・士官学校の出身で、30過ぎまで独身でした。
縁談が持ち上がった時、当時のお金で60円の借金が花柳界にあったといい
ます。五島の曽祖父がすべてチャラにしてくれたそうです。
それというのも長男夫婦に子供がなく、三男は早世、四男が長男夫婦の養子
となっていましたが、こちらも子供ができなくて、3年ごとに嫁さんをとり
かえて、そのたびに地所をつけて返すので物入りで、一人独身で残った次男
の祖父に嫁を取って、村長でもさせて手元に置こうという算段だったようで
す。
私の祖母が初めて祖父の実家にあいさつに出向いた時、玄関でいきなり噴出
したそうです。
かねて話には聞かされていたが、幼児用見たいな黒い鼻緒の草履のそばに、
16文キック並みの大きな赤い鼻緒の草履が置かれていたからだそうです。
そう、私の曽祖父と言う人は、体が弱くて小さくて、箱火鉢のまえで、煙草
を吸うのが仕事のような人で、たまさか田畑を見回りに行くときは、曾祖母
が背負った籠の中にちょこんと座って運ばれていたんだそう。
曽祖父の知能程度は定かではないが、曾祖母の方は侍の娘で、読み書きそろ
ばんもできて、「気は優しくて力持ち」と母の長兄が話すのを聞いたことが
ある。明治維新で侍が失業した時、曽祖父の父親が休耕田を開放して、世話
をしたらしい。「うちは体の弱い一人息子がいるだけだから」と言うのが理由
だそうだ。その時の侍側の世話人が曾祖母の父親で「あそこの家には世話に
なった。お前嫁に行ってくれ。」と言われて曾祖母は嫁いだそうだ。
これが長兄の話で、ストーリーテラーの母にかかると、曾祖母の父親が息子
のために嫁さがしをしたが「村で一番大きい女をもらおう。そうすればひ弱な
息子でも子供ができるだろう」と村中を探したが気に入らない。
隣村にそれは体の大きい娘がいると聞いてはるばる会いに行くと、そこは水
飲み百姓の小屋で、中にはこどもがうじゃうじゃといて、中でもひときわ体の
大きな娘がいて一目で気に入り、嫁にもらった。と言う話に変化する。
まんが日本昔噺じゃあるまいし。もっともかごに入れて担いで歩いたのは
本当らしい。
祖母も背の高い女だった。164センチあった。
祖母の妹は158センチくらいしかなかったしその夫も「五尺0寸0分であり
ま~す!」と徴兵検査で叫んで不合格になったらしいが、祖母姉妹の父親は
180せんち以上あって、隔世遺伝か大叔母の息子たちはたいがい揃って背が
高く、冠婚葬祭で黒いスーツで並んでいると壮観である。
息子のお嫁さんをもらう時、大叔母の基準は「こまんかもんはものの役に立
たん。おんなはふとかとがよか。」というものだった。
この大叔母は「こどももまごも、おおぜいもたんばつまらんと。大勢おれば、
あの子の話はどうなったかな~と思う間に次のこの問題が起き、そのうちに
最初の問題は解決しとっと。」という眼から鱗の大爆笑格言を言い放った。
そこにいくと、祖父のいうことは、おかしくもなんともない。
しかし、ついやってしまうという点では、こころしておかねばならないたぐい
のことである。
それは、こどもを打ったり蹴ったりしてはいけない、ということだ。
それでは叱っていることにはならない。自分の怒りを発散させているだけだ、
と。母親が多少ヒステリックに大きな声を出すのもいけないのだが、大の男が、
大きな声で子供を威嚇するようにどやしつけてはなおいけない。
子供は最初はびくっとするが、そのうち大声に慣れてしまって、むしろ、
見つからなければいい、父親のいないところなら大丈夫、と思うだけだ、と。
しかるなら、ゆっくりと教え諭さなければならない。反省させなければなら
ない。「ダメ!ではなく、いけません!と言いなさい。」そして、手を押さえる。
体を止める。危ないことをしそうになっていたら、その場で止めて、教えな
ければならない。おもしろがって走り回っているのを、後から追いかけては
いけない。こどもは遊んでくれると思うだけだ。と。
そして、最も子供にしてはいけないのは、「嘘をつくこと?」いいえ、から
かって泣かすことである。
母親がキッチンなどに引っ込んで何かしている時、こどものそばにいる大人
が「あれ~おかあさんがいない。お母さんどこかへ行っちゃったよ」などと
行って、こどもがべそをかいてるのに、「どうしようか。おかあさんいないね」
などと追い打ちをかけて泣かしたりしてはいけない。
また、ひとりで他の部屋へ行こうとしてる子供の後ろから、怪談のバック
ミュージックのような効果音、「ひゅ~」などと言って、子供の恐怖心を
あおって、泣かせたりしてはいけない。
たとえば鉄棒でもすべりだいでも、「OOくんは年下なのに一人で出来るのよ」
とか「大丈夫だから、はやくしなさい。臆病ったれね。」などと言って傷つ
けてはいけない。
「臆病なのではない。用心深いのは賢いからだ。何も自分で考えずにやって
しまう蛮勇で解決することなぞ、社会に出たら何もない。」
祖父は大人しい私には特に何も言わないし、ぜんぜんかまってもらった記憶
がない。私のお守は祖母の担当だったのだろう。
はいはいすれば蚊取り線香を食べる。縁側からまっさかさまに落ちる。
タンスの取っ手に足をかけて登り、その上からジャンプして降ってくる。
そういう弟を外に出す時、祖父は地面を歩かせず、常におぶって歩いていた。
近所の他の年寄りから、「自分の体が疲れるのに、孫可愛さにおぶって歩いて」
と笑われた祖父は、「孫がかわいくておぶっているのではない。けがをさせ
たら娘が悲しむ。それが申し訳ないからおぶって歩くのだ。」とめずらしく
怒ったそうだ。
おじの一人が食事中に自分の子供をおもいきりたたいた時、祖母は、「じい
ちゃんは一度も子供をたたいたことはない。あなたも父親にたたかれて育っ
てもいないのに、なぜ自分の子供をたたくの!」と怒って、そのおじの家を
出て、ほかのおじの家に行ってしまったそうだ。
自分の子をたたいたおじは、私の甥っ子がちいさいころ、上に書いた
「おかあさんどこいった?」をやって甥っこを泣かせ、母が「なんで泣かすの
機嫌良くしてるのに!ばっかじゃないの」と激しく怒り、そのおじが中座
すると甥っ子は泣きべそがたちまち笑顔になり、「行っちゃったね!」と
皆に確認を取るので、他の叔父が「行っちゃったねか。こりゃあいいや」と
大笑いしていた。
「じいちゃんが、子供をからかって泣かせちゃいかんと言ってたのを聞いて
なかったのかしら。三つ子の魂、百までっていって、からかわれたり、
馬鹿にされたりしたときの気持ちをずっと覚えているって。だから小さい
こどもをぶったり、からかって泣かしたりしちゃだめなのよ。もっと大事に
かまってやらなきゃ。」と母は言っていた。
母は確かに優しいところは驚くほどやさしいのだが。。。なんというか怒る時
はかなり感情まかせだったと思うわ。私と弟は同居してた父方の祖母の部屋
に避難するだけじゃ足りなくて、母の機嫌が悪くなる日暮れ時になると、
仕事から帰る祖母を迎えにバス停まで行って、時には一時間以上待っていた
ものだった。
祖母こそ、こどもを打ったり、からかって泣かしたりしないひとだった。
母が大きな声を出して怒りだすと、まず祖母が退場。
私達もすきを見て祖母の部屋に退場。毎晩3時間くらい一緒に時代劇を
見ていたな。
祖父との思い出は無いけれど、祖父から父方の祖母にあてた手紙があって、
父がサナトリウムにいて私達は祖父に預けられていた。祖父の手紙は
「O子さんもO(弟の名)さんも、元気ですからご安心ください」という
ような書き出しだった。「自分の孫なのにさんづけ?」と聞くと、母は、
「外孫だからね」と言っていた。この祖父が長生きしていてくれたら、
私は長崎で就学していたかもなあ。。。なんて思います。
小学生の母が新聞を音読して読めない字を飛ばすと「それはOOと読むと」
と答えてくれたそうだ。
祖父は母が遠くに嫁に行くのが気に入らず、結婚式に出なかった。
それでも私達を引き取って、面倒を見てくれたのだ。

Posted by massan&junjun at 19:38│Comments(0)