2009年06月09日

書院造

まっさんです。

鎌倉時代以降、武士の勢力が台頭してきました。武士はそれまでの平安貴族

の建築様式を自らが使いやすくするため、変遷させてゆくのでした。

では、一体どのような様式にしようとしたのでしょうか。

そう、皆さんよくご存じの「書院造」への進化です。

最も、寝殿造の様式がすたれてしまったのではなく、併存の状態が続き

ます。

両者の相違点は次の通りです。

*寝殿造が棟が別々になっているのに対し、書院造は一軒の建物で構成され

ています。

内部は間仕切りで区切られており、必要に応じて使い分けができるように

なっていました。

そのため、寝殿造で使われていた家具たちも次第に造り付けされるように

なってきました。

では、書院造の建物の中で、一体武士は何をしていたのでしょうか。

そう、皆さんもうお分かりになっていると思いますが、そうなんです。

争いごとの調停を彼ら武士が仕切っていたのです。

このため、武士は係争関係者を家に呼んで、両者の調停の処理をしたの

です。

そして、調停の場である部屋を、「ハレ(晴れ)」または「会所」

(カイショ)といい、またプライベートな場を「ケ(芸)と称しました。

これらの部屋には、工芸品や調度などが飾られましたが、結局、床の間と

してまとめられていくのです。

当初の床の間は、付書院、床の間、床脇(トコワキ)から構成されました。

この部屋の事を「書院」(ショイン)と呼ぶようになったのです。

有名な建築物としては、慈照寺の東求堂同仁斎という現存する座敷飾り

(書院)があります。

この名前“ぴん”とこないでしょうが、室町時代の足利義政によって

建築された銀閣寺の事です。face01

今日はここまで。


書院造



Posted by massan&junjun at 22:35│Comments(1)
この記事へのコメント
どうも、こんにちは
Posted by IDたなかっち at 2024年07月08日 14:00
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