2009年12月14日

ツイッター ちょと私にはむかないって編


じゅんじゅんです

昔、京都のひなびた資料館の狭い壁の一面に、「日本人はみんな、紫式部の

子孫」というテーマの系図がかかっていて、ある天皇から紫式部までの系図

と紫式部から彼女の娘やらそのあとの子孫から枝分かれして行く系図で

あったのだが、その時の私の関心は「紫式部」も「清少納言」も「右大将

道綱(有名な藤原道長の異母兄)の母」も「孝すえ娘」もみいんな6親等

以内の親族・姻族なのだということだった。

まあ殿上人と呼ばれる3位以上の公卿が、すべて親子従弟はとこ従弟半で

占められていた時期もあったくらいだし、天皇の妃がすべて、天皇の従姉妹

であるばかりでなく、その妃同士も従姉妹同士などということもあった平安

朝400年。滅びるはずだよ。

しかし、源頼朝も、天皇の何代か後の子孫であるから、なんにも変っちゃ

いなかったのだ。明治維新はどの天皇の何代あとの子孫か解らなくなった人

達の支配体制を、同じように解らなくなっちゃった人たちが崩したに過ぎな

いから革命でも何でもないわね。個人的見解ですけど。

革命と言えないから「維新」と言うのだと、どこかで読みました。

それは「坂の上の雲」を視て(まっさんは50代なので小説もちゃんと読ん

だあとだが、私は読まずにテレビを見るのね。あべちゃんとモックンが兄弟

として見つめあってる図、「う、うつくしい!」わたしが、「ちゃんと兄弟に

見えるね。」というと。「おう!なんか似てるなこのふたり」とまっさんも

賛成した)も、正岡子規が、「太政大臣」になって帰ると言って故郷を出る

ところにも顕著に表れてると思ったな。

テレビでは「やるからには、その分野で日本一になってやる!」それが明治

の(もちろん就学の機会に恵まれた幸運な健康な若い男性のみ)若者の気概

だとか言うようなことを言っていた。

子規もそのひとりだと。

しかしやっぱり、「書かねばいられぬ性」でしょうよ。

秋山兄弟の弟、モックン、真之(さねゆき)が、兄、あべちゃん、好古に

言っていた。「わしはこのままでは、二流の学者になりますけん。わしの

学問は二流。根気も二流ですけん。」「根気も二流か!」「わしはどうも、

器用なところがありますけん。。。」

器、器用のどこがいけないの?二流の味は蜜の味よ。三流でも五流でも大学

は大学よ。なんて、通じないんだろうなあ。

モックン真之は海軍兵学校へ行くのだが、大学予備門を中退して行くのだ。

今なら、河合塾二年目にして東大文一志望から防衛大学に行くような??

まったく比較すべきものが無くてわからないが、若くて健康な若者なら、

大学予備門の学問三昧な生活では体を壊すか力を持て余すという見本が、

ちょうど子規と真之なのだなと。なにせ東京都内から江ノ島まで、品川だか

横須賀だかの遊郭を抜けて徒歩で行くのだ。何しに?「海が見たいの」

いいえ、野郎ばかりで飲まず食わず(これを無銭旅行って言うのね。芥川も

似た様なことしてたわ。子規組かと思ったが。もっとも子規も参加してるわ)

何が楽しいんだ?海を見て吠えるのだ。

まあ女同士、高校の頃、湘南の海まで行ったことありますよ晩秋に。失恋?

そうでもなかったな。

真之とちがって私達は不器用だったし、吠える代わりに海に石を投げたり

した。海のそばに住んでいる人には解らないかもしれないが、人間、海を

見に行かずにはいられないときがあるものなのだ。

そして、明治の東京大学予備門生だろうと、昭和の川崎の高校生だろうと、

行先は湘南・江ノ島しかありえない。

ツイッターからずいぶん脱線してしまったが、私には、向かないなという

ことがわかりましたわ。骨の髄まで。




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Posted by massan&junjun at 18:43│Comments(0)
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