祖父の格言シリーズ① 小学校就学前の幼児の才能について 前篇

massan&junjun

2009年12月17日 20:22



じゅんじゅんです。



先に「子供が何人いようと養子になど出すものではない」という祖父の

考えについてちょっとお話ししましたが、「骨髄移植」兄弟で適合率25%

などと言う話。また生体間移植の場合、親からが11年(年齢的問題)

配偶者間が12年(医学がいかに進歩しても所詮他人)に比べ兄弟間は

23.5年の生着期待値が見込める(あくまで平均)などというデータを

見ると(腎臓)、う~ん と唸ってしまいます。

祖父の遺品に 日露戦争記念 陸軍の杯 がありました。

陸軍兵学校で学んだ明治の人です。

陸軍はドイツ兵法に傾倒していて、やがてフランス兵法を取り入れますが、

「遺伝学」直流の知識でなくとも、なにか、その類の知識があったのかも

しれません。

祖父は子供より、妻を大事にするひとでした。

祖母はやまいもで手がかぶれる体質で、平素、家事など全くしない祖父が

やまいもだけは包丁で皮をむく、その姿を母は覚えているそうです。

また、第二次大戦後、祖母が47くらいで子宮がんを患った時、自分の遺産

相続分の山を全部売って、祖母に薬を買ったそうです。祖母は85まで

生きました。

その祖父が、よく、将来母親になるであろう、私の実家の母に、「私はこども

のころ。坊さんがあげる経はたいがい決まっているから、みな暗記していた。

坊さんが行けない山奥の村で法事などがあると、重宝がられて、お経をあげ

に行き、野菜や果物、いくばくかのお布施をもらって帰ったものだ。だが、

小学校へあがると、みんな忘れてしまった。学校の勉強で頭が占領されたの

か、役に立たないと判断した暗記した経の方で場所を明け渡したのか、それは

わからない。しかし、小学校入学前の子供の覚えが好かろうと悪かろうと、

その道の才能がある、などと早合点しないことだ。頭がからっぽだから、自然、

一度にたくさん覚えているにすぎない。すぐに忘れる。」

私が2歳ぐらいの時、企業のマークと言うマーク(社章というのかな)を覚え、

車やビルを見るたびに「みちゅびしよ」「しゅみともよ」「にぽんこうかんよ」

と言っていても、「良く知ってるわねえ」と驚きはしても、またまんざら

馬鹿ではないと母は思ったらしいが、「その才能を生かしてなにか英才教育」

などとは、祖父の言葉を思い出して、考えなかったそうだ。

まして、小物という小物を、母が取っておいた包装紙でぴしっと、預かった

お使い物のつつみと信じて疑わないほど包装してしまった時も、それが才能で

それを生かして将来の職業に、などとは微塵も思わなかったに違いない。

だから、多少の記憶力と、ある種のしつこさとして、その時の性質は残って

いるが、知識として残っているわけではないし、職業など持っていない。

私の従弟が4歳くらいの時、ひらがなを覚えることに夢中になり、母親が

家事をするのに追いかけまわして、一字一字しつこく尋ねるので、叔母は、

「まだ早いでしょ。」と閉口していた。(私の9歳の夏休みのことだ。)

しかし従弟はあきらめない。また、彼はおしえられた字を書こうとするのだ

が、細い鉛筆に彼の小さい手がマッチせず、どうしてもうまく書けないので、

そのたびに、癇癪を起して、鉛筆を放り投げる。と、芯が折れてしまう。

それでもまだ書きたいので「鉛筆を削って」と母親にお願いするのだが、

とりあってくれない。

彼はとうとう、私の母に「おばちゃん。鉛筆削って。」と寄ってきた。

母はそこで、「あなたが鉛筆を投げるから、ほら、みてごらん。いくら削っ

ても芯が折れてるでしょ。鉛筆は字を書くものなの。投げちゃだめなのよ。」

と教えた。彼は二度と鉛筆を投げなかった。

うまく書けないと、彼は、「おにいたんの、な」「クリスマスの、さ」とか、

でたらめなのか彼なりの規則性があるのかわからないが、そう大声でとなえ、

ゆっくり字を書くようになった。

そしてひと夏で50音を全部書けるように成ったらしい。

従弟はその時、握り箸であったのだが、私や弟と自分の握り方が違うと解る

と、それもひと夏のうちに、なおしてしまった。

ひと夏いて私たちから学んだのはいいことばかりではない。

私は玉子にマヨネーズをかけて食べていた。それを見た彼はさっそく真似た。

以来、それまで塩で食べていた玉子を「じゅんじゅん姉ちゃんは、こういう

食べ方じゃなかった!」と言って、マヨネーズつけないと食べなくなった

らしい。叔母は、「まったく、うるさいんよ」と閉口していた。

彼がいまだにゆで卵にマヨネーズをかけて食べているかは知る由もない。

しかしかれが4歳の時に覚えた50音を忘れたことなどあるはずもない。

幼稚園の時から、文章が書けて、幼稚園時代から秀才と言われていた。

叔母は「田舎に転勤になって、幼稚園も小学校もひとクラスの人数が少な

かったんよ。それがよかったのかもしれんねえ。」と言うだけだ。

しかし彼がしつこく50音を覚えようとしたのは、何か目的があったから

ではなく、叔母がいつも勉強していたからなのだ。

それは田舎の生活に必要なバイクの免許を取る試験勉強だったり、車の免許

を取る試験勉強だったかもしれないが、叔母はいつも一発合格であったらしい

から、かなり真剣に(家事の合間に)勉強する姿を彼は見ていたのだろう。

そして真似をしていたのだ。お勉強の。

彼は現在、博士号を持ち、専門分野でばりばり働いている。

しかし従弟の大学院時代、「よっぽど勉強が好きなのねと、みんな言ってる

わよ。」と私が言うと、「勉強の好きなやつなんて、いるはずがない。」と

笑っていた。

しかし彼は台風が来るとうきうきと同級生と電話で、「来るね!絶対来るよ。

うん。」とか話していて、一足先に社会人になった妹に「ね、うざいでしょう」

と言われるような大学生だった。

4歳の時と、うざさは変わらないんだ、と妙におかしかった。