2013年03月02日

じゅんじゅん 大鵬に握手を求めず我慢したこと






じゅんじゅんです



夜中のBSで 大鵬の特集です

貴乃花が初めて横綱の土俵入りをした日 母は言いました

このひと 横綱になったら どんなにきれいかと思っていたけど

そうでもなかったわね

私に同意を求めないで。。。 母の記憶に残る 美しい横綱というのは

当然 双葉山関ではなく 大鵬ですが

私にとって大鵬というのは 見て強いとか美しいとかいう以前に

物心ついたときに 近しい人たち 母や祖母 裏のお爺さんなどが

常に応援していた 横綱で

物心ついたのち(ずいぶん物心がついたのが遅いんだなと言われそうだ)

私にとって 横綱というものは大鵬とイコールであり それは

当時の総理大臣が佐藤栄作で 総理大臣が彼でなくなったとき

総理大臣というものが 変わるものだと知って驚いたのと同じように

大鵬が引退というものをして 横綱でなくなったのも理不尽な気が

したものだ

在位歴代天皇第一位の昭和天皇と ほとんど同じく不動のものかと

思っていた 迂闊な小学生だったので

玉の海という新進の横綱が出てきたとき 担任も同級生も 大鵬を

まるで老害のようにくさすのを聴き 玉の海なんかしんじゃえ と

思ったりしたのだったが 本当に死んでしまったので あまりにショックで

大鵬の断髪式が そのまえだったのか 後だったのかも 覚えていない

そして私は 母が北の湖や 大関貴ノ花を応援するのを聴きながら

なんとなく大相撲というものを 目や耳の端で感受しながら

そのショックが癒えるころには 貴乃花が17で十両になり

19で幕内最高優勝したりしていたのだ

初めて平幕の貴乃花が 小錦に勝った時など OLをしていて

5時半に終了する勤務時間まで待っていると 平幕の貴乃花の

取り組みは終わってしまうので 日本シリーズでいつ荒木が登板しても

見られるように買っておいた 小さいテレビ(もはやどんな名称だったか

さえ忘れた 平成初期のワンセグ以前の話ですから)で観ていたため

貴ノ花が負けたと思ったが 軍配は貴ノ花に上がり ビデオ再生で

確かめて うれしかったことを思い出す


そのころには 母の次兄はもうなくなっていたのだが

その伯父は わけあって25で相撲取りになり 幕下優勝まではしたが

そこで廃業して 料理人になったが 自分の店を持つ前に死んで

しまった


背が高く 細身で 大きな声も出さないような人だったが

幕下時代から 芸者衆にもてて いつも 素敵な格好をしていたらしいが

自分の店を持つために 母の長兄の家をたづねたところに

夕方よく 実家から長兄の方の伯父の家に 自転車でぶらぶらする

ついでに寄ったりしていたわたしは 遭遇してしまった

大人の男性が 大人の男性に ものを頼む 借金の申し込みを

するところというのは 子供心に(って もう二十歳近かったんじゃ

ないかな)たいへんショッキンングな記憶として 映像で残っている

兄に 返してもらわないと困るんだよ といわれ 弟は それはもう

大丈夫です と答えていた

気まずい私は つい 次兄の方の伯父が 帰るときに一緒に玄関を

出てしまい 自転車を引きながら 去っていく伯父のカーキ色の

トレンチコートの後ろ姿を いつまでもみていた


背が高く 引き締まった体の伯父には 袖を通して 前は締めずに

風に吹かれて トレンチの裾が翻っている そんなダンディーな

姿が よくはまっていた

私にとっては 舘ひろしのトレンチコート姿なんか あの時の伯父に

比べれば ダンディズムがたりないってなもんだ


母は後で その時にはもう 自分の病気のことは知っていたんだろう

けど まさか死ぬとは思っていなかった いや 配偶者が教えて

いなかったのだろうというが どうだろうか


伯父は店を開いて 家族のために 残したかったのかもしれないし

何とも言えない

その伯父が 池袋の病院に入院しているというので 弟と見舞いに

行った時 トレンチコート姿よりも 病んでさらに痩せた体に 縞の

パジャマが ものすごく似合っていて 恰好よかった

あんなに恰好よい 病人を 後にも先にも 見たことはない


伯父は昼食を残さず食べ 私たちが帰るとき エレベーターまで

見送ってくれた

わたしは病人が見舞客を見送るなんて 知らなかったので」驚いた

その後 何度か入院した時 私は まっさん以外をエレベーターまで

見送ったことは ほとんどない(まっさんは割と センチメンタルなので

そのくらいのサービスは無言で要求してる感じがするのよね)


母の次兄を エレベーターの扉が閉まるまで見ていた私は

彼は死ぬんだな 自分でもそれを知っているんだな と思った



その伯父が 臨終のとき 大学の後期試験の前だからと行かなかった

私はもう 二度も お別れをした後だと そういう気持ちだった

通夜に行き 伯父の死に顔を見ても 悲しくはなかった

さらに痩せていても 美しい男だと 美しい死に顔だと思った


従妹は 伯父の遺影にどうしてもと 幕下優勝した時の記念写真を

使うことを主張し それを通した

彼女が物心ついたときにはもう 伯父は相撲取りではなかったのに


髷を結った 若い伯父は それは芸者衆にモテタだろうと思った

従妹とは 3つしか違わないのに 見る目が違っていた

彼女にとってはあくまでも父親で パパの人生最高の時を 遺影にした

かったのだろうか


しかし私の心の中にある伯父の遺影は あの風に翻っていた

トレンチコートの後ろ姿だった

それなのに 最近 自分が病んでからは あの縞のパジャマ姿を

やけに思い出す


わたしが数年前 入院していた時 エレベーター前を散歩していたか

バイタルチェックにナースステーッション近くに血圧を測りに行った時か


車いすにすわった 大鵬を見た

大鵬は入院中で 同じく 入院中の若い相撲取りに がんばって

病気を治さなきゃだめだよ と 諭しているところだった

若い相撲取りは 首をおって頭を下げぱなしなので 顔も見えないが

その背中越しに 大鵬の立派な顔と 静かな声を 私は見続け

聞き続けた

大鵬の正面に パジャマ姿で 立ちっぱなしとは なんとも失礼というか

ミーハーというか ウドの大木というか 締まらない話なのだが

私はその場を離れるとことができなかった


私は大鵬をよく知っている もちろん 大鵬も 誰にでもよく知られている

ことは承知だろう

私は大鵬から視線を放すことができず 大鵬は若い相撲取りに

言葉少なにかたりながら まっすぐに私をみた


私は伯父に似ていない 伯父は大鵬とは別の部屋の幕下の力士だった

相撲取りをやめても 部屋に出入りし 中学校で相撲を教え 何人かは

相撲界に世話したりもした

しかし 大鵬とは 接点はないだろう

伯父は地方巡業では甚句などを唄って人気もあったらしいが

大横綱の記憶にあるはずもないだろう


私は大鵬に 私の伯父も 昭和30年代に 相撲を取っていましたと

言いたかった

大鵬の 大きな手に触れてみたかった

ただ 握手してくださいと言いたかった


でも それができなかった


大鵬は あの時の伯父のように 死を私に感じさせたりしなかった

むしろ 立派な人は 年をとっても 病気でも 車いすでも

大きさを感じさせる 立派なひとなんだと思った


大鵬は あと何年も 闘病をしなければならないだろう

しかし 私が大鵬と遭遇するのは これが最初で最後に違いない

そう感じながら 私は 大鵬に声をかけることも 握手をねだることも

できなかった


そうして あのトレンチコート姿の 風に吹かれていた伯父を

自分の病室に戻って 静かに思い出していた


国民栄誉賞が 大鵬の死後に 贈られた

賞状の文章を読み上げる首相は 噛んでいた


そんなことはどうでもいい

ただ 私は あの時 握手してもらえばよかったのか

我慢して正解だったのか わからなくて今夜 涙した


Posted by massan&junjun at 03:05│Comments(2)
この記事へのコメント
昨年暮れ逝去したわたしの父が大鵬と同い年でした。大鵬と生まれ年が一緒というのが父の自慢であり誇りだったと思います。大鵬ほど強く美しくそして勝負に執念を燃やした日下開山はいないと思います。6連覇2回、46連勝、の空前絶後の成績を残し、30回の優勝を迎え現役中に初の一代年寄を受けながら更に2回、双葉山の再来を思わせる磐石右四つ新進横綱玉の海に逆転優勝という煮え湯をのませ最後まで王者として君臨しました。握手せずともその相撲神のオーラはじゅんじゅんさんに伝わっておりますですよ。元美男力士のトレンチコートの伯父さまも土俵の勇姿を見てみたい気がします。わたしの父も激動の昭和を大鵬のように雄々しく羽ばたいた男でした。呉服の世界でも強く美しく君臨し続けた王者だったと思います。団十郎、大鵬と大御所が相次いで逝去し 時代が変ったというひとも多いのですが、父がぼくに 俺らがやったこと、お前らがもっぺんやってみせぃ!と言われてるような気がしてるんですよ。。。
Posted by ふくひろ 若旦那 at 2013年03月02日 08:29
時代は常に変わり続けているのでしょう

短命だった18代勘三郎を 一度も生の舞台で見ることはできませんでしたが
紙この着物をきた 色男役の 17代勘三郎の舞台を 今は亡き祖母と見ました(一緒に住んでいた父方の祖母)

祖母と見た最後の舞台は 勘九郎と勘太郎の連獅子でした
6代目の孫である18代勘三郎とひ孫である現勘九郎の連獅子に
若きころに見た6代目の姿を 祖母は思い出していたでしょうか

トレンチコート姿の母の次兄が 私に言った言葉は おばあちゃんを大事にね でした
そういう伯父の心の中には 故郷にいる老いた母の姿があったのでしょう

私の父は 今何も 心配なことはないと言います
自分のことも 子供のことも 原発も なにも父の頭に 長くとどまり続ける
ことはできません

しかし時代に爪痕を残すこともできない多くの人々と 父のどこが違うというのか なにか 達観っというもの そういう境地に 運ばれつつある気もします

しかし大鵬のこと 大鵬にまつわる記憶のこと 書いてしまって 悲しみが癒えるのではなく 読み返すと とめどない涙になってしまう

そういう自分を なぜか なかなか悪くないとまだまだ 見なおすことのできる自分がいるんです
Posted by じゅんじゅん at 2013年03月05日 14:24
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