2009年12月13日

ツイッター 自由と制限編


じゅんじゅんです


友人がよく言うことには、

メールって、平安時代の「文」みたいだなあって。

返信が遅いのはヤボとか無駄に長いのはダメとかさあ。

私の返事は、

ああ 後朝の文 とか?返事が遅いと誠意が無いとか、

包む和紙がどうとか、早けりゃいいってもんじゃなく

駄文はダメとか、和歌がうまくなけりゃダメとか、やたら

和歌なんか返さずに一枝折って寄こすのがしゃれてるとか、

やたらセンスを問われる、あれね。

友人

「そうだよ。センスが必要なの。なんか平安時代みたいだなあって。

日本人って変わってないんじゃないかって。

メールの文章だけ、やたらうまいやつ、いるでしょ。」

私、

ああ いるいる。でも業平が「あいつは和歌ばかりで漢詩の才能がない」

って二流扱いされてたみたいに、メールだけうまくてばかにされてるよう

なのね。

話してる時は楽しいし、会話は弾んでいるようだが、こうして書いてみると、

友人の感慨と分析は社会学的見地にあるようなのだが、

私は会話を文学的領域に引っ張ろうとしてるよね。

だからこの先に話が進まないのだなあ。

友人が「平安時代みたい」を繰り返すので、話は大塚ひかりの

「源氏の男はみんな最低(サイテーだったっけ?そんなニュアンス)」の話

に移って行った。

変わってないのか、進化したのか、良くわからない日本人であるが、

私は、今、流行っているという「ツイッター」は「2ちゃんねる」の進化形という気がしている。

2ちゃんねるも、初期には、「半年ロムってから書き込め!」という、

「技は盗め」式の職人気質と言うか、スパルタ式というか、

そういう教育があったものだが、玉石混合からやがて

有象無象の住家になってしまった。

もちろん常識的範囲で穏やかな「ここは荒れないし、皆さん大人ですね」な

スレッドもあるにはあるのだが。

「140字以内」というツイッターの制限は、後朝の文は和歌で、という

お約束のように、熱意と誠意と実意を必要とする。

「自由服」の制服の高校で「標準服」と呼ばれていた「制服」をいい加減

に崩して着ていた私が、吉屋信子さまが美しく描写されるところの正統的

美少女のセーラー服姿に憧れるように、「制限」というものは、「自由」より

も、確かな才能やセンスが問われるところなのである。あ、和歌とからめて

意味がつながったかな。

社会学見地から話を進めて行きたかった友人の深層が、

私のこの文章を見て(って変な日本語だがブログだからなあ。

読んで、というより見てという感じになる気がするのよね)

紫式部が清少納言を「学問が浅いくせに、書き散らしちゃってさ」

と批判したように、鼻白んでいる気がする。被害妄想?

まあいいのさ。在原業平だって、同時代人から馬鹿にされてたのさ。

おお 大きく出たね。業平は、身分の割に出世できなかったうっぷんから、

30にして16位の高子姫に手を出したとか、和歌に逃げた(当時の学問や

政治的文書はすべて漢文・漢詩)とかいう解釈もあるらしいが、やっぱり

「詠まずにいられぬ業」でしょう。

紫式部も「お前が男なら」と父親に言われたと「私の漢詩の知識は本物」を

匂わせつつ、「紫式部日記」では女房たちの衣装の色彩意匠などなど細かく

「六条院の衣配り」なんか目じゃないほどの描写をこれでもかと出来る才が

あるのに、そこはぐっと抑えて、衣装について書くときでさえ、いやこそ、

人物の深層心理や周りの人間の心理まで書きわける道具として使うだけで、

物語の重心をぶれさせないという、力量を持っていたが、それでもやっぱり、

「物語を書かねばいられない性(さが)」なのだろう。




ツイッター 自由と制限編



Posted by massan&junjun at 14:06│Comments(0)
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。