2009年10月19日

グレース・ケリーのファーザーコンプレックスについて


じゅんじゅんです

文学部とか演劇部の卒論じゃありません。

梅子さんのリクエストのロイヤルネタから連想した即興です。

グレース・ケリーはヒッチコックのお気に入りの女優で、「マーニー」も

有名な「鳥」も彼女主演で撮りたかったのだが、レーニエ公がというより

モナコの国民感情が許さず、実現しなかったらしい。

グレースはアメリカ人で、移民3世だが、父親が事業に成功しリッチマン

で、叔父はピューリッツアー賞も受けてる劇作家。

演劇学校に通ってモデルをしていても、要するにお嬢様だった。

彼女はリッチマンな父親の3人目の子供で、上に姉と兄がいて、下に妹が

いた。グレースは、三人姉妹の中で、今写真を見ても当然一番の美少女なの

だが、痩せぎすで、内気で、スポーツより読書を好む彼女より、健康美人

の姉の方が父親のお気に入りだったようだ。

そして、父親の期待にこたえられるだけの知能と体力をもった兄さえいた。

後年でさえ父親は、「私は姉妹の中で成功するものがいるとすれば、それは

パトリシア(長女の名)だと思っていた。」と証言している。

グレースは演劇学校に通っている時代から、えらく年上の男性に弱かった。

しかも、「成功していて、プレイボーイで、女の扱いに長けている

ひどく年上の男性」そういう男性がいると「まさに、グレースの好みに

ぴったり!」と周りが評したが、周りが気づいた時にはもうふたりは付き

合っていて、彼女は相手の男に夢中。もちろん相手の男性も彼女にぞっこん。

それで何が問題かというと、20代の彼女に対し、相手が40代ともなれば

当然相手は既婚者であるということ。

80年代アメリカなら精神分析医通いとなるところだが、時代は60年代。

ケリー家では父親が相手の男性のもとへ乗り込む一方、グレースには母親か

妹が撮影現場にぴったりくっついて恋路を断ち切らせた。何度も何度も。

そう、グレースは何度でも、ひどく年上の男に恋した。それは恋というより

渇望に似ていた。当然与えられてしかるべきものが与えられなかったことに

よる渇望だ。

彼女が求めていたのは、父親の愛だったと思われている。そう、あまりにも

あからさまで、誰だって気がつく。「彼女はファーザーコンプレックスだ。」

実はグレースには婚約までした同年代の男性がいた。しかしその男性とは

別れなければならなかった。そう、彼の死でふたりは分かたれた。

その痛手が、彼女を喪失感の中に突き落とし、その喪失感が彼女に渇望して

いたものを思い出させたのであろうか。無意識に。あるいは意識的に?

レーニエ公との「お見合い」はテレビ局の企画とも、ケリー家が手をまわし

たとも言われていたが、「レーニエは年上でプレイボーイで女の扱いに長け

ている。まして国王だ。グレースの好みにぴったり。」というのは衆目の

一致するところであったようだ。

「恋多き女」と思われていた彼女は、女優の美貌はそのままに、品格と威厳

をもった国民自慢の王妃となった。貞淑な。

思うに、心がひとりに向けられていれば、他の男なんかはジャガイモに見え

る。レーニエがどんなに浮気をしようと、そしてそれが不快であろうと、

父親に気に入られず、反抗半分「恋多き女」を演じれば父親に軽蔑され、

結局望んでいた愛情を父親から受けるために、王妃となれば見直してくれる

と信じて多くの持参金とともに王妃の座に就いた彼女には、少々の痛手で

しかなかったかもしれない。

そしてそんな彼女のこころの冷たさがレーニエの心を寂しくさせ、さらに

浮気に走らせたのだろう。

グレースには義務があった。世継ぎを挙げること。男の子を産まなければ

モナコはフランスに吸収されてしまうことになっていたのだ。

全国民の期待であるとともに、それは父親の期待でもあった。

グレースを嫁がせた時、父親の感想が「やれやれ、かたづいた。」であった

としても。

「雪をかぶった活火山」 ヒッチコックのグレース評である。

義務と努力という冠をかぶって王妃を演じ切った「雪」の表情の下に、

「活火山」であるところの渇望を封じ込めたグレースは、テレビ局の

インタビューに対して、こんなことを言っている。

「女にとって、40歳になることは悲惨です。」

確かに40代というのは、肉体的にも社会的にも老いの段階に入っていく

時期だ。そして、そろそろ人生の果実の実り具合を予想できる時でもある。

彼女の努力で経済的に立ち直りつつあったモナコ公国の近代化の失敗。

「木を見れば果実がわかります」と公言して励んだ子供たちの教育の結果。

ケリー家でも姉は二度も離婚。兄はアル中となりおんな狂いの揚句死亡。

( 思うに、姉も兄も父親の呪縛から逃れられなかったのだろう。

「人生は自分で勝ち取れ。勝つためには勝ち続けるんだ。」移民の子として、

全員、新興成金ケリー家の一員として義務を果たしたといわれている

10人兄弟、その長子である父親のプレッシャーに耐えることが出来

なかったのだ。 )

父親も亡くなり、母親も寝たきりになったという。

彼女の予想通り、その後の彼女の人生は悲惨の一途であった。

レーニエとの不仲は深まり、彼女は深酒に溺れていたといわれている。

だから、自動車事故が起きた時、「あれは自殺だ」という噂もたったのだ。

しかし、彼女の顔は無傷だった。

美しい死に顔をさらして、絢爛な葬儀の主役となった彼女は、伝説となった。

そして、「ファザーコンプレックス列伝」の一章を勝ち取り続けるのだ。
 

グレース・ケリーのファーザーコンプレックスについて



Posted by massan&junjun at 22:08│Comments(0)
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