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2009年11月04日

お友達がいないの


じゅんじゅんです

紀宮清子内親王は兄宮達より一年早く幼稚園へ行かれた。

かといって姫宮のためだけに急遽、学習院幼稚園を3年制にするわけにいかず

柿の木坂幼稚園に一年だけ通われたのだった。

その理由は「サーヤ、お友達がほしいの」

当時、東宮御所には、兄宮たちの御学友が頻繁に遊びに来ていたらしい。

ジョン・レノン夫人のオノ・ヨーコは自宅の森(!!さすがママは安田財閥

出身)でお弁当を持って、しぶしぶお供する女中(当時はそう呼んだ)と

ピクニックに出かけ、ひとりで哲学してたらしいが、サーヤはお友達を欲し

がった、と。

オノ・ヨーコは「女中は私を好きでついてくるのではなくて仕事だからだ」

とかひねたことを考えてたらしいが、そんなところがむしろ、育ちが違えど

ジョンの感じ方と似たようなところがあり、パートナーという名のお友達に

なれたんじゃないだろうか。あれは元祖友達夫婦だと思うのだ。

そこのところを理解しないで「ジョンとヨーコ」のようにになりたいとか公言

するのは、とっても恥ずかしいことじゃないかと思う。

私たちも、初めは友達夫婦だったと思う。海外旅行もインテリアもドラマや

映画も、食べ物も、まっさんはじゅんじゅんから、ずいぶん吸収したと思う。

一緒に旅行に行き、外食し、映画に行き、散歩に行き、楽しく10年を過ごし

たが、まっさんに吸収されてしまって、私には何も残っていない感じがする

のだ。

この間「おれ、フランスパンはあまり好きじゃない」と言うので非常に驚いた

のだが、今まで10年間、ポトフにもビーフシチューにもフランスパンを出し

ていて、何にもいわれなかったのに。

ところがおととい、ボルシチに「石がま焼きカンパーニュ」をそえたら、

「うまい!これはうまいパンだ」というんです。材料を見たら、小麦粉と

全粒粉のブレンドでした。そこまでグルメになれと誰が頼んだ~!私だよ。

フランスパンは外のぱりぱりが嫌いなんだって。石がま焼きカンパーニュは

たしかに皮がもちもちよね。歯ごたえがあってさ。中身はフランスパンの

ふわふわより、こしがあるわよね。確かにおいしいわよね。

だけど「こんなおいしいパンは初めてだ!」ってあなた。神戸屋のサンド

イッチのパンと同じものよ。ちがうか。あっちは具がはさんであるために

しっとりしすぎていたのよね。。。

はああ。。。これからエストエストと石がま焼きカンパーニュだけのために

四季の森フォレストにいかなきゃならないなあ。。。

食材の買い物にも夫と行く。買い物友達もいない。

映画にも夫と行く。映画友達もいない。旅行友達もランチ友達もいないのだ。

ちょっと困った状況である。

行きつけのマッサージの店の経営者は、「岩盤浴、一人で行きますよ」とか

言っていた。「友達とおしゃべりしながら入るのもいいですけど、ひとりで

さっと行けて、10分入っては休んでを繰り返して、さっさと帰ってこれます」

と。友達がいないだけじゃなく、一人上手でさえないな、私。

「ザ・ハプスブルグ展」にも行きたいが、一人で行くのもねえ。

沖縄の友達を誘ってみたが、くるんだか来ないんだかはかばかしい返事を

しないし。

しばらく会っていなくて、電話でだけ話していると、会うのがおっくうになる

んだろう。「ひさしぶりだから、会って、お互いに驚くのは止めようね」とか

言っていた。ということは、記憶の中のお互いは、若いころのままだという

ことなんだろうか。

若いころはただ銀ブラするだけでも楽しかったものだ。

東京駅から有楽町まで歩き、銀ぶらしたあと、日本橋まで歩いたりしたものだ。

見るのは映画でもティファニーのアクセサリーでも包丁でも画集でも仏像でも

着物でも、何でも楽しかったのだ。

あの時間を、もう一度取り戻すことはできない。

友達がいないのではなくて、もう若くはないということなのかもしれない。

お友達が欲しくても、今から幼稚園に入るわけにはいかないし、老人ホーム

にはまだまだだいぶ早いだろう。

孤独でいられるというのも、贅沢なのかもしれない。

車の運転も出来るし、時間もあるし、いくばくかの小遣いもある。

それで一人を楽しめないというのは不幸なことではないのか。

それでも思うのだ。友達が欲しいと。

自分の性格が友達を寄せ付けないのかもしれないとも思うのだが、私の昔から

の友人は、共通の話題のある、ママ友達とか趣味友達といる方が楽しいだろう

とも思う。ママ友は持てないから趣味友を開発するしかないのだろうか。

サーヤは東宮御所の広いお庭で素敵なママとおままごとをしていても「お友達」

が欲しかったのだ。それは自分は寂しいのだという訴えだ。

私は寂しいのだ。友達と遊べないことが?いいやむしろ、年をとっていくこと

が寂しいのだ。一日一日、一瞬ごとに、年を取っていく。

そのことを束の間忘れるために、友達が欲しいと、考えているにすぎないの

かもしれない。



  


Posted by massan&junjun at 22:06Comments(3)